現在お買い物カゴには何も入っていません。
投稿者: Shigeo Kawazu
雨の桜通り
ちょうどイースターの日曜日(4月20日)に、官庁街通りの桜は満開になった。翌月曜日にローマ教皇が亡くなった。そして、4月23日水曜日の朝、満開の桜通りは冷たい雨に濡れていた。世界の平和を願い祈りながら天に召された教皇の死をいたむかのように、この日の桜通りには、涙のような雨がしとしとと降っていた。
4月20日 4月21日 4月22日 4月23日、雨模様の桜通り 4月20日日曜日、ミサに出る前、わたしは自宅から、春祭りの会場で開催されている園芸のコーナーの盆栽会のテントまで、ちょうど満開になっていたフジザクラの盆栽の鉢を手に持ち、歩いていった。十和田市官庁街通りは、ちょうど満開になったばかりで、車道は車の行列、両サイドの広い歩道にもかなりの人出があった。ほぼ晴れで、風もそれほど強くなかった。桜はほとんどまったく散っていなかった。
4月20日、春祭りの盆栽市展示 少し前からカトリックのミサにときどき出ていた私は、イースターの日もミサに行った。会堂は美しい花でかざられていた。いつもより多くの人が会堂の来ていた。神父の説教は日本語と英語とタガログ語でなされた。愛餐会に誘われて、信徒の皆さんと、ひととき楽しい時を過ごした。
4月20日、イースターミサ、十和田カトリック教会会堂 カトリック教会から南に少し歩いて、市の公民館まで行った。そこで十和田短歌会の4月例会に参加した。3月に一度お邪魔し、4月から参加させいただくことになっていた。2007年2月に船橋市で亡くなった母が、四半世紀にわたり参加し社友でもあった短歌結社「潮音」に、母を引き継ぐ意思をもって参加させていただき、その後数年間所属していた。仕事が忙しくなって、「潮音」を辞めさせていただいてから、十数年間短歌を読むことはなかった。
4月20日、短歌会で頂く それが知人に誘われて、3月に一度短歌会を覗かせていただいていた。短歌をやめたことは残念な想いがずっとあったこともあり、少し考えたのち、参加させていただきたいとお願いした。それで、少し急であったが、4月の例会からは会員として参加させたいただくことになった。久しぶりに、にわか仕立てで読んでみた歌は、満足のいく出来ではなかった。しかし、それをN先生から書き直していただくと、それは見違えるような歌に変貌した。
遅き春朝の光に温もりて言の葉記す八戸の街(筆者)
指折りて春の言の葉さがす朝八戸の街にも遅き春来る(先生)
どうみても、わたしの歌は凡作で、先生のはたいへん素晴らしい。妻に後で読んでもらうと、先生の歌の素晴らしさに感動していた。同じ文字数でこれほど違うのだと、わたしもたいへん驚いた。
短歌会が終わった後で、もう一度桜祭りの会場の盆栽会のコーナーにいくと、すでに二日間の日程を終えて、後片付けいをしていた。今年も、即売もされていた盆栽や鉢をいくつか分けていただいた。
その後しばらくの間、桜はあまり散らなかった。そして、ほぼ満開に近い見頃のままの状態が何日か続いた。例年より冷たい風が、いつまでも吹いていたことが、桜の花を長持ちさせたのか、それとも、昨年と比べるとかなりの剪定と手入れをした桜の樹々が元気を取り戻したのか、いずれにしても見事な桜をしばらくの間楽しむことができた。
ちょうどこの時期に、フランシスコ教皇が亡くなったことで、カトリック信徒ではない私でも強いショックを受けた。そして気持ちが沈んだ。世界のプロテスタント教会は、その多様性のゆえに、かえって多少普遍的な思想から離れたりしてはいないか心配になるケースもある。ところが、カトリックはフランシスコ教皇の発言からも窺えたように、かなり高い水準の普遍性を維持しているように感じられる。もしかしたら、同じような感想を持っている方もいるかもしれない。
十和田市は4月に入ってからも、夜は寒い日が多かった。日中もあまり暖かくない日も多く、毎日散歩をするというわけにも行かなかった。本当に春めく日というのが少ないのが、今年の春の特徴である。それがメンタル面でも、多層明るさと笑顔を奪ってしまっていたかもしれない。国際関係や経済も不安定さを増し、気象までもが必ずしも明るさをもたらしてくれはしない状態のまま、いつの間にか月末になり、ゴールデンウィークに入り、カレンダーも5月になった。
桜の花がとても美しかったのだけれども、どことなく元気がでないのは、戦争や災害や国際的な軋轢が、多くの人々の日常生活にも暗い影を落としているからではないだろうか。
知人からいただいたヒメリンゴとすみれが咲いた。寒い冬を越えて咲く花に慰めを見ている。
春はスローモーションのように
数日前の4月12日だったと思うのだが、十和田市街も暖かくなったので、そろそろ官庁街通りの桜のつぼみもほころび始めるのではないかと、期待した。しかしその期待はあっけなく外れてしまった。まだまだ肌寒い日が続いていたので、桜の樹の方でも、そこまで気分が向かなかったのだろうか、と少しだけ気落ちした想いで桜並みの大通りを歩いた。
翌13日は、気温がまた下がった。ミサに出るので早めに散歩に出た。前日より気温が下がったので、おそらく開花はまだしないだろうと思った。実際官庁街通りの桜並木は、どの樹もまったく開花していないように見えた。
俯き加減で浮かない表情をしながら、わたしは歩いていたことと思う。中央病院の前を少し過ぎたあたりで、向こうから元気よく歩いてくる方が見えた。そしてすれ違うほんの数歩手前で、その方がすっとご自分の右手の桜の幹の人の背丈より少し上方に視線を向けた。そして微かに微笑んだ。
わたしはとっさに「開花してますか?」と話しかけた。もう1、2歩歩くと、わたしの方角からは死角になっていた側の桜の幹が見えた。ほんの数輪だったが、桜の花が咲いていた。わたしは「開花していますね!」と、いつのまにか少し軽い気持ちになって語りかけた。ほんの一瞬の小さな春を胸にしまって、まるでスローモーションのような春の展開に、少しうんざりしながら、しかし少しだけうきうきもしながら、まだ他の樹々は一輪も開花していない桜並木をいつもにように歩いて行った。
14日も気温はさほど上がらず、桜並木の様子は、相変わらずだった。
そして今日15日になっても、まだ気温はさほどには春めかない。今週の後半くらいから、やっと本格的に暖かくなるという予報だ。とすると、もしかしたら次の日曜日、キリストの復活祭の日に満開になるということなのだろうか?
上の写真は一昨日撮影。今日の午後になって、もう1度歩いてみると、これと似たような幹から咲いている桜の花が数ヵ所あるのを見つけた。下がその写真。
消えたクロッカス
今朝、家の庭で事件が起きた。クロッカスの花が無くなっていたのである。
今年は春めいてくるのが遅かったので、庭の花がなかなか蕾を見せなかった。この冬に青森市の知人からもらった紅梅の盆栽だけは、3月半ばにはかなり咲き始めたが、それは末頃までには散っていた。しかし、他の花は水仙にしてもチューリプにしてもクロッカスにしても、一向に成長してくる気配がなかった。
そんな中で、忘れかけていた少し大きめで浅い形の植木鉢に植えてあったクロッカスが、先陣を切って、花の中では最初に紫色の蕾をつけ始めていた。しかし、冷たい風の吹く日が多かったせいなのか、そのクロッカスの蕾はなかなか成長しなかった。開花するのはもう少し春めいてからだろうと、思っていた。
じつは、このクロッカスの鉢植えはもう枯れてしまったものと思って諦めていた。それで長い間そのまま放っておいたので、土の表に枯れた草や紛れ込んだ小石などが混ざってしまっていた。先日、これはもう捨てなくてはと思っていたその矢先に、小さなクロッカスの芽が出ていているのに気づいてびっくりしていた。昨日も、紫色の小さいが元気そうな蕾を見せていたので、もう少し暖かくなれば綺麗な紫色の花が開くだろうと期待していたのである。
2025.4.4. それが一夜開けて今朝になり、朝から春めいた日差しが差しきたので、今日こそは開花するだろうと思いつつふと庭先を見てみた。すると、何とクロッカスの蕾は消えていたのである。植木鉢はそのままいつもの場所にある。だがクロッカスの花が見えない。
2,025.4.5. 庭に出て注意して見てみると、間違いなかった。クロッカスの花が消えていたのである。それもなんと花の部分だけが、捥がれたようになくなっている。妻とわたしは大変驚いた。いつもミステリーを観ている妻が、まず推理をし始めた。これはどうみても、動物が食べてしまったのではないだろうか。しかし、わたしは疑った。動物がクロッカスの花を丸ごと食べたりするのだろうか。第一動物だとしても、まさか最近また出没して初めている熊が、ここまでやって来てクロッカスを食べていったのだろうか。もしかしたら、野鳥だろうか。しかし、野鳥にしても、クロッカスの花を食べたりするのだろうか。
突然降ってわいた事件に、妻とわたしは事件の真相を巡って議論を始めた。こんな時は、そうだ今流行りの生成AIに聞いてみようと思いついた。早速、野鳥がクロッカスの花を食べたりするのか聞いてみた。すると、さすがにこういう時には生成AIは便利なものである。わたしたちもまったく知らなかったのだが、ヒヨドリやスズメなどは、クロッカスの花を食べることがある、という答が返ってきたのである。生成AIは間違えることもあるとはいうが、おそらく野鳥がクロッカスの花を食べることはあるのではないだろうか。
そう確信したのは、事件現場の状態がやはり野鳥説と矛盾するものがなく、それらしい痕跡が他にもあったからである。というのは、鉢植えの近くに食べられてしまったクロッカスの花びらが一枚落ちていたのである。おそらく嘴で突いたものの、花びらを一枚落としてしまったのだろう。ヒヨドリにしてもスズメにしても、嘴の形状からすれば、やはり花びらが一枚剥がれ落ちたとき、それを再度啄んで食するのは困難であろう。
こうしてさまざま状況証拠から、おそらく犯人は野鳥である、とわたしたちは確信するに至った。しかしその野鳥がヒヨドリかあるいはスズメかはたまたそれ以外の野鳥なのかについては、真相は闇に包まれている。
しかし、ただもう一つ、もし野鳥が犯人だとすれば、それを犯人扱いするのもちょっとかわそうだと思ってしまった。第一、クロッカスの花はその野鳥にとっては貴重な食料だったわけである。クロッカスの花は、少し前に近所の庭先で咲いているのを見たことは見たが、それはこの辺では珍しく早咲きのクロッカスで、その後は街を散歩していてもいまだほとんど見かけない。
つまり、クロッカスが大好きな野鳥だったとすると、春が遅くなかなか咲いてくれないクロッカスが、一輪蕾だけでも咲きそうなのを見つけたとするなら、それを食するなという方が酷な気がする。むろん開花を待っていたわたしたちにとっては残念ではあるが、その野鳥にとっては、とても美味しいクロッカスの花を食べられたのだから、それはそれでよかったのである。
こうして、我が家の今朝の事件は、最終的な真相究明はできなかったものの、蓋然的には、庭にきたいずれかの野鳥のご飯になった可能性が高いということで、一件落着した。
しかし、それにしてもこんな事件が身近に起こるまで、クロッカスの花を食べる野鳥がいるということなど想像したこともなかった。人生はいつでもそれまでまったく出会ったことのないような出来事に遭遇し、それを通して学び続けていく道程なのだと改めて深く気づいた1日であった。
追記:後で、普通の検索をしてみると、クロッカスが食べられることはよくあることだと分かりました。鹿もウサギもそしてもちろん野鳥も食べるようで、園芸に詳しい方々にはよく知られたことだったようです。まだ園芸を始めたばかりの私たちにとっては、まだまだ知らないことがたくさんあるのだと知りました。
遅い春
3月に入ったとき、もうこれで暖かくなるだろうと思った。北東北とは言え、これまで数年間暮らした記憶では、3月と言えばやはり暖かくなってきていた。
この冬は風が冷たかっった。私自身が歳を重ねて、少しづつ体力が落ちてきていることもあるとは思うが、そればかりが原因ではなく、やはり外気の体感の冷たさが気温よりもかなり厳しく感じられたこともあり、散歩へ出かけるのをやめたことが幾度もあった。
そうは言っても、2月も過ぎ3月に入ったのだから、いくら北東北とは言え、いつもの年のようにそろそろ散歩日和が続くだろうと、心の中で期待していた。その期待は、あっけなく裏切られてしまった。あたたかい日がなかったのではない。しかし、すぐに寒の戻りになる。そして、その寒の戻りが居座るのである。こんなことで、3月と呼べるのだろうか。もちろん誰も責めたりできないことだが、多少気が滅入ってしまうのは致し方ないことである。
評判のよくないクレーマーにでもなって、テレビ局の天気予報士にクレームをつけて八つ当たりできたらよいのかもしれないが、あいにくというか幸というか、わたしはどのテレビ局の気象予報士にもたいへん好感をもっている。だから筋違いで愚かなクレームなどは、予報が大きく外れたとしてもする気はまったくない。そもそもわたしは、気象予報が好きなのである。気象について詳しい知識に基づいて、毎日丁寧に予報をしているのを見ると、尊敬の念を覚える。
しかし地球温暖化だというのに、どうしてこの冬から春にかけて、こんなに寒かったのか。東京や北陸などでは、すでに3月中旬に夏日になった日もあったようであるから、そこには地球温暖化が影響しているのだと思う。しかし、その東京ですらこの2、3日は花冷えだそうだ。おそらく、地球温暖化は同時に地球の気象変動をもたらし、全体的には温暖化しつつも、気象変動の影響で、これまでとは違った形で逆に寒さがきびしくなったりする時期や場所があるのだろう。
振り返ってみると、人生には、気象変動や地盤変動に似たことが間断なく起こる。どの一年をとっても、前年から予想できた〈未来予想図〉の通りになったりはしない。間断なく生じる人生の局面の変動は、それまで経験したことのない初めての状況であることが多い。それであっても、時々に応じて舵を切り、小波も大波もなんとか乗り切っていかねばならないのが、人生である。
わかりきった人生訓を予め学んで、それを遵守していれば大丈夫だといったふうに簡単にはいかない。人によっても千差万別だし、時や場所によっても、状況は大きく変わる。もっとも重要なのは、柔軟な思考力であろう。基礎的な知識は不可欠だが、知識だけではどうにもならないことが多い。まったく新たな状況では、対処方法も新しいものが必要になる。
散歩の効用の一つは、日々世界が新しくなっていることを、肌で感じられることである。毎日天気も違うし、草花や樹木の様子も日々成長し、また枯れてしまうこともある。立ち止まって風景写真を撮ってたとしも、その景色とまったく同じものを見ることは二度とない。立ち止まってニュース速報をみれば、災害や戦争や事故など、世界中に無数の大変動が生じているのを瞬時に知ることができる。
現実が辛いと感じるときは、情報をたくさん見ることは止めて、のんびりと街歩きをする。家々の庭先に咲く花を眺めて気持ちを慰め、ときどき大空を見上げほんの数秒でだけでも、その美しさに魅了されてみる。世界中に思いを馳せてみるのも、自分だけの想いに立ち戻って自分の心を労るのも、すべて散歩をしながらできることだ。いや、むしろその方が、室内に一人だけでいる時よりも、さまざまなことを受け止め経験する端緒をつかむためには、より適切だと思う。
外に出て散歩をしただ空間的に広い場所にいる時間をもつことだけでも、孤独を楽しむにしても、また逆に孤独を癒すにしても、たいへん適していることようにわたしは感じる。
寒かった日曜日も終わろうとしている。明日は年度末だ。そして、火曜日からは新年度が始まる。
Photos: 2025.3.29 Towada City.
春を待ちつつ
この冬は青森県は大雪だった。しかし、どうしてか十和田市ではそれほどでもなかった。青森市や弘前市や酸ヶ湯温泉の大雪のニュースが毎日のように続いていたので、十和田市でも同じような大雪に見舞われていると思われた方も多かったことと思う。しかし、実際は、それほどの大雪は十和田市ではなかった。2、3年前にかなりの大雪が続いたことがあったが、その時と比べれば、積雪は比較的少なく、除雪車もそれほど頻繁には来なかった。
ただ、降雪はそれほどではなくとも、寒さはかなり厳しかった。寒さというのは、天気予報で使う観測された気温というよりも、むしろ体感として感じられる寒さが、測定された気温よりもずっと寒いと感じることがたびたびあった。
外の風がとても冷たかった。2、3年前は、真冬でかなりの積雪が残っていても、朝のゴミ出しのあと、そのまま歩き出し、小一時間の散歩をすることも時々できた。実際、この冬も、昨年末ごろまではそれと似ていてときどき散歩もできた。新年になってからはだいぶ違った。積雪が少なく、気温もそれほどには低くない日でも、体感される外気が冷た過ぎて散歩など到底無理だった。
2月後半になっても、まだそんなとても冷たい風が吹く日が多かった。昨年までだと、2月末も押し迫り3月が近づくころには日差しの温もりの暖かく感じられる日もあって、晴れた日の散歩は結構楽しむことができるようになっていた。年が明けて新年になってからの冬の寒さはまったく違った。冷たい風が吹く日が多く、春が近づいているようにはなかなか感じられなかった。
振り返ってみれば、この地球上に一体本来の春はやって来るのだろうか。あまりに多くの人びとが苦しみの中に閉じ込められたままの日々を送っている。そして春が来るかなと思っていると、それどころかさらなる寒風が吹きすさぶ。
3月に入ってからも、暖かい日があったかと思うと、またとても冷たい風の吹く真冬のような寒さが戻って来た。まるで虐められているようにすら感じられた。春を待ち侘び、明るさと軽さと暖かさの到来を待ちわびているものの気持ちとしては、挫かされずにはおられなかった。
多くの人が何が正しいことであるのか知っている。それだのに、なぜか正義が実現しないどころか、ますます遠のいて行くようにすら見えてくる。わたしは長く教師をして、それなりに一生懸命働いた。それが、老年になってから、世界中の苦しむ人がだんだんと増えて行くような世界になるとは夢にも思わなかった。わたしの仕事など、世の中のためには、なんの役にも立たなかったのではないかとすら思へてくる。
先日、カトリックのミサに初めて行った。50年以上前にプロテスタントの洗礼を受けていたが、これまで一度もカトリックのミサには出たことがなかった。それが、どうしてなのか自分でもわからないのだが、ふとカトリックのミサに出てみたくなったのである。初めてのミサで、わたしはただただ黙って祈っていた。ミサに出ていた他の方々も、静かに祈っていた。グレゴリアンシャントに似た旋律で歌う賛美と祈りの声が穏やかに響いた。
ミサからの帰り、もしかしたら、春はもう真近に迫っているのかもしれないという微かな期待がふと心をよぎった。
春を待つ公園の木々
雪解けのWhite Christmas
12月16日、前夜に雪が降り、街は白銀の世界になった。昼頃になり、日差しが少し暖かく感じられた。それで散歩に出てみた。それまで少なくとも数日間、寒さで散歩がまったくできていなかった。身体が鈍ってしまい、心持ちも少しどんよりしていた。
散歩に出ると、すっかりと雪化粧した街の風景は、穏やかな冬の日差しを受けて真っ白に輝いていた。空気は冷たかった。しかし、日差しが暖かかったので、冷たすぎはしなかった。。むしろ、冷たい大気を吸い込みながら白銀の世界を歩くのは、たいへん気持ちがよかった。
雪が降り過ぎれば、外出はできない。散歩などはもちろん不可能だ。しかし降雪は多少あっても、よく晴れて日差しがある日であれば、これほど散歩にもってこいの時はない。子供の頃、私の住んでいた関東地方でも、真冬には結構雪が降り、街が一面の雪景色になることもあった。そんな時、何かの必要があって外を歩くとわくわくした。そんな長く忘れていた白銀の世界の真ん中を歩く楽しさを、知らず知らず、思い出していた。
12月19日。この日も朝から雪の町を散歩した。
12月23日。積雪はそれまでよりもっと深かった。それで歩いたのは、朝のほんの短い時間だけだった。
12月24日。昨日のクリスマスイブの日の積雪も多く、ホワイトクリスマスを迎えようとしていた。
12月25日クリスマス当日、積もった雪は大部溶け始めていた。
雪が溶けのホワイトクリスマスになっていた。このあまりに厳しい現代世界にも、来年は、こんな雪解けの季節が訪れればよいのだが、と心の中で願った。朝日を照り返す真っ白な白銀の世界は美しい。だが、雪が溶け出していくときには、もっと豊かな美しさがあるように感じる。雪が溶けるとき、それまでに蓄積されていた多くのわだかまりまでもが、同時に解けていってくれるように感じる。雪は水となって、すべての生命を生かしていくものだからなのだろうか。
Merry Christmas !
細やかな視点
しばらく前に、NHKのニュースの中でのインタビューであったと思うが、倉本聰さんが、新作映画について語りつつ、現代人の美意識についてあるいは美に対する感受性について話をされていた。倉本さんのお話しは、私なりに纏めると、現代人は美を感じる力が落ちてきているといった内容であったと記憶している。それには、まったく同感だった。
美しいものの美しさは、もちろん作品の売買される価格で決まるものではない。たとえば、唐突ではあるが、同じ映画のジャンルで言えば、若いときに観た「ブラザー・サン シスター・ムーン」を思い出す。フランチェスコがすべての私財を捨てて、何も持たずにただ自然を愛し弱いものに仕えて生きることを決意する。そのとき、彼と彼に従った者たちには、すべての大自然の限りない美しさが見えていた。
そこまで大げさな決断とまではいかなくても、それまでずっとこだわって来たものが、ある時、スーッと抜けていったりすることがあるものだ。そんな時、それまでとは少しも変わらない同じ暮らしをしているのに、毎日見ているものすべてが、これまで経験したことないような生き生きした風景に見え始めてくる。そして、何でもないささやかなものまでが、どれもみな、とても美しく愛おしいものに見えてくる。
何気ない風景や佇まいに「美」を見るということは、本当は、そんなふうにして可能になってくるのではないだろうか。画家が何気ない風景を本当に美しく描けるのは、画家の眼が、そんなふうに、肩の力を抜いた眼で一切を観ているからなのだと思う。それは何かを捨てたからこそ、見え始めた美しさなのだ。
なんでもないものの美しさに気づき、それにハッとさせられて見入ることができるのは、肩の力が抜けた時だと思う。そしてそれはまた、肩の力が抜けたときこころの中に生まれてくる、柔らかな思いにもつながる。そういった時には、ものを見ているときの心持ちにも変化が起こっていて、気づかぬうちに、自分の眼が「細やかな視点」を持ち始めているものだ。「細やかな視点」というのは、「細かいことにこだわった視点」という意味ではない。そうではなく、見ているものを、ザックリと簡単な言葉でラベル付けてして片づけたりしてしまわず、むしろ何かを見ているうちに、こころの中に静かにゆっくりと、まるで詩人のように、自分自身の言葉が自然と紡ぎ出されて来るような、心持ちの「細やかさ」のことである。(逆に言えば、レディメイドの誰かららの受け売りでしかない言葉など、使わないのである。)
なんでもないものが、それが生きものであっても、また必ずしも生きものではなくても、とても愛おしく親しみをもったものとして感じられる。悠久の時間と無限に広がる宇宙の中で、あっという間に過ぎ去って行く、この限られた人生の時間の中で、偶然に出会ったものたち同士なのだ。だからこそ、その一つ一つの出会いそのものが、無限に愛おしく美しいのである。
リズムの喪失-その2
歳を重ねたからだろうか。以前はそれほどには興味を持たなかった日本映画をときどき観るようになった。少し古い昭和時代の映画を観ると、とても懐かしく思う。若い頃から、それほど頻繁に映画を観ることはなかった。ただ、もちろん、たまにはヒット作などを観てはいたのだが。
つい暫く前だったが、インターネットにアップロードされていた映画「少年時代」を観た。映画は、1945年日終戦の1年ほど前に、東京で家族と住んでいた小学生が、富山県の片田舎の親類宅に一人で疎開するところから始まる。わたし自身行ったこともない富山の、しかもわたしが生まれるより10年も前の時代の田舎の風景、そこに佇む古びた木造の小学校とその周囲に薄く広がる人々が暮らしている街の家並み、そして小学校の生徒たちの間に展開していく、子供ながらにもさまざまな人間模様を織り成すドラマのような一年の四季の移り行き。
戦争が終わって、東京から母親が迎えにくる。そして、母は一言、東京は空襲で大変だったと子に語るが、広島と長崎の原爆には言及しない。しかし、映画に感情移入しているわたしにからみれば、ああこの時はまだ戦争が終わったばかりだったということは、広島と長崎はまさに原爆の被害の直後であった時なのだという想いなど、映画の中で描かれてはいない苦しみをも連想してしまうのを止めることができない。
この映画の描き方が、時代の雰囲気をじつによく捉えているので、観ていながらその時代にいるような気持ちになるのである。わたし自身は昭和28年生まれだ。だから、昭和19年から20年までの一年間の記憶はもちろんない。しかし、現代からみれば昭和28年から数年ほどの時代は、まだまだ戦後すぐの時代の雰囲気をかなり残していたと思う。それに、わたしの両親は終戦の年には父がほぼ20歳で母は10代であったから、どうしても両親の人生を思うたびに、彼らが生きた厳しい時代への想いが湧き出てきてしまう。
ネットで観た映画「少年時代」は、最後の部分で、主人公が汽車に乗って東京に帰るときに流れる井上陽水の「少年時代」の音声が、おそらく著作権の関係でカットされていた。それで、わたしは別の音楽配信で「少年時代」を聴きながら、映画のエピローグ部分を観て、その雰囲気に浸った。自分の経験でもないし、自分の生まれる10年も前の時代を描いたのに過ぎなかったのに、わたしはなぜか懐かしさで胸がいっぱいになった。
その時代がよい時代だったというのではない。それはひどい時代だった。映画の中頃で、恋人が出征するので半ば気が狂ったようになった若い女性が出てくる。その描写はじつに写実的で、じっさいそういう人がいたに違いないと確信してしまう。それなのにどうしてその時代を懐かしく感じるのか、自分でもよくわからない。
じつは、わたしはこの映画と前後して、丹波哲郎が刑事役をした、松本清張原作の「砂の器」の映画も観ていた。これはストーリーはフィクションだが、時代背景としては、やはり戦中から戦後の日本の生活がある。これもクライマックスで、主人公が子供時代にハンセン病を患う父親と二人きりで裏日本を放浪する場面の回想が入る。回想場面は、芥川也寸志作曲の音楽の盛り上がりと共に、病む父と子の二人だけの放浪がいかに苦しかっただろうかという視点をじつによく描いている。
この映画にも、わたしはどうしようもない懐かしさを感じてしまう。それはフィクションだし、テーマはじつに苦しい人間の生活なのだが、しかし、おそらく、そこにある抵抗できないほど豊かな人間的な感情の世界が、その善し悪しに関わらず、懐かしくてたまらなくなってしまうのではないだろうか。
さて、それがどうして「リズムの喪失」につながるのかと言えば、この2つの映画で描かれている夏、冬、春、秋は、じつにそれぞれ四季らしい四季なのだが、それらがどうしてかはわからないが、人生の四季をも同時に深く描いているとしか思えないのである。四季はただ自然の四季なのではない。それは人生の四季とつながる、とういよりむしろ人生の四季そのものですらあるように思えてしまう。
そうった四季の感覚が、いつのまにか現代の自然から消えてしまったように感じるのは、やはりわたしが高齢になったからということだけなのであろうか。今、散歩をしながら、わたしはどこかで昔のような四季らしい四季を探しているのかもしれない。昔のように夏らしい夏、冬らしい冬、春らしい春、そして秋らしい秋である。植物さえ四季を間違える時代になって、人間もまた人生の四季を味わいつつ成長し成熟し老いてゆく時の流れを失いつつあるように思えてならない。
リズムの喪失
しばらく前だったが、奈良県南部の彼岸花が例年より遅れて一斉に開花したというニュースを見た。開花が遅れたのは、夏の気温が高かったことが影響しているという話であった。
今年の夏が異常な高温だったことにもよるだろうが、近頃散歩をしながら路傍の草木を見ていると、季節外れの花が咲いているのをよく見かける。それは開花の時期が多少遅れたいうよりは、明らかに狂い咲としか言えない季節外れの開花である。
わたしがはじめて季節外れの花に驚いたのは、もう何年も前のことである。その頃は千葉県の都市部に住んでいた。ある年の秋、すでに10月の後半くらいになっていたのではないかと思うが、見慣れていたマンションの玄関アプローチに作られていた小さな花壇の紫陽花が一輪だけ狂い咲きしていたのである。そのような狂い咲きに気がついたのは、そのときがはじめてだった。
だいたい紫陽花をいうのは梅雨の時期に一斉に咲くものである。多少の開花の時期のズレはあるものの、以前はおおよそその時期にどこでも開花していた。だから、紫陽花は梅雨の時期に相応しい雰囲気を自然に帯びていた。雨がしとしと降る梅雨寒の時期に街を歩いていると、路傍の花壇や近くの家の庭先にさまざまな色の紫陽花がその美しさを競うように咲いていた。それは長雨が続き梅雨の鬱陶しさで少し息苦しいような感じがしたりするときに、ふと目を止めるものの心を慰めてくれる鮮やかさと新鮮さと繊細さを兼ね備えていた。
梅雨が終わって真夏になっても、しばらくは紫陽花の花は咲き続ける。しかし、盛夏を過ぎるころになると、いつのまにか紫陽花はほとんど枯れてしまっている。そして、ふと気がつくとそれまで美しい花を咲かせていた紫陽花の株には、枯れた紫陽花の花びらが満開のときの形をとどめたまま、枯れ果てた姿を見せている。紫陽花は咲いているときはとても美しいが、枯れたときの姿がちょっと寂し過ぎると言うひとがいた。そんなふうにして、だれもが紫陽花の咲く季節とそれがいつのまにか枯れてしまう季節の移り替わりを、ほぼ無意識のうちになぞりながら、四季が美しく移ろいいく日本の風景の中で生活していることの持つ季節感の豊かさを味わい楽しんでいたのである。
その紫陽花が狂い咲くのを、その後毎年のように気づくようになった。それは東京都や千葉県などの関東地方でもそうだったし、その後十和田市に住むようになっても同様だった。いやむしろ狂い咲く花々を見るのは、いつの間にか日常茶飯事になってしまっていた。
それまでは春にのみ咲くのを見ていたツツジなども、今年は秋が深まるころになってからも、あちこちで見かけるようになった。この狂い咲きの常態化にまだ気づいていない人は、少ないのではないだろうか。
紅葉の始まり方がたどたどしくなってきたように感じるのも、わたしだけではないだろう。夏が終わって多少涼しくなりかけたころに、毎年紅葉する樹木の葉のほんの一部が、先走るのを申し訳なく思っているかのように、控えめに色づく。ところが翌日には、また気温が高めにぶり返すので、紅葉の勢いは止まってしまう。それどころか、まだ紅葉していない多くの枝の他の葉たちは、むしろ真夏のようにその青さを増し、青々とはつらつとした濃い緑を復活させたりするのである。
この項目を書き始めたのは、1、2週間前であった。その後、まだまだ結構暖かい日があったりしたので、市街地の紅葉はなかなか進まなかった。この一両日やっと最低気温もかなり冷えるようになり、市街地の紅葉も始まってきている。十和田湖など、もう少し山に近い方に行けば、紅葉は見頃になってきているようなので、市街地の紅葉も次第に見頃を迎えることにはなるだろう。
紅葉の美しさに心を洗われるのを待ち焦がれる思いに変わりはないが、春も秋もわからなくなってしまったような狂い咲きがこれほど頻繁に見られるようになった日本の風土で暮らしているのだから、ともかく今年も紅葉を楽しめさえできればそれで満足だといった、安穏とした季節感に浸ることはできない。
四季のリズムがかくも激しく喪失した日本の風土を、どうやって本来の生命的なリズムを刻んでいた、人と社会のリズミカルな成熟をも支えるほどの豊かなリズムに回復させたらよいのかという、深刻な問題に立ち向かう責任の重大さを噛み締めながら、紅葉し始めてきた桜並木の下をひとり歩いている。
ジョウビタキ
昨日も朝の外気には秋の冷たさがあった。いつもより早めに散歩に出た。散歩がもっとも充実するのは早朝だ。登ってくる朝日と冷えた大気に触れながら、朝露がまだ残る草花を探しながら歩くのは爽快だ。
官庁街通りの歩道沿いに花壇で、いつものように手入れをされている方たちとはじめて短く挨拶を交わした。これだけの花壇を春の初めから秋の終わりまで、ずっと手入れをして守っておられるのには、頭が下がる。
午後になって少し蒸し暑くなったが、今度は二人で近くまで散歩をした。その帰り道、近所の保全公園を歩いていると、草むらにスズメに似た野鳥が、少し躓きながら跳ねているのを見つけた。
スズメによく似ていたが、よく見ると左右に黄色の羽根が飾りのようにあり、あまり見かけたことのない野鳥であることは、すぐ分かった。後で調べてみると、ジョウビタキという野鳥の写真とそっくりだったので、間違いないと思った。そのジョウビタキは明らかに弱っていた。歩き方が躓きながらだったし、もう飛ぶことはできないように見えた。
チベットからバイカル湖を経て、越冬のために日本までやってくる渡り鳥である。まだ幼く見えたこのジョウビタキは、少し早めに日本まで渡ってきたものの、この蒸し暑さは予想外だったのではないだろうか。
暑さで弱ってしまい、もしかしたらその上、期待したような餌も見つからなかったのではないだろうか。保護はできないものか、市役所や県の合同庁舎に電話してみたが、無理だった。夜は冷えたので、ジョウビタキには過ごしやすいのではないかと思っていた。夜が明け、ジョウビタキがまだ保全公園の草地にいるかどうか様子を見ながら散歩に出てみた。しかし、もう同じ場所にはいなかった。
地球の一周の何分の一かの距離を渡ってきて、日本のちょうどこの街のこの公園の草地で、ひとり群れから逸れてただ弱っていたジョウビタキのことを思うと、やはり他人事のようには思えなかった。
人が人生で渡っていく途方もない距離は、じつは空間的な距離ではなく時間的な距離だ。はるか彼方の生まれ故郷から何十年にも及ぶ時間の旅によってやっと辿り着いた街で、ひとり静かに死を迎えようとするとき、たまたまそこで出会った誰かがしずかに見守ってくれたなら、それだけで安心できるのではないだろうか。
ふとそんな思いがして、ひとり亡くなって行こうとしていたジョウビタキのことを、今朝になってもどうしても忘れることができなかったのである。