タグ: 人生

  • 隠された花びら

    桜の季節は終わった。

    遅い春だったが、ついに桜が咲き始め、満開になり散っていった。

    遅い春と感じたのは、いつまでも肌寒い日が続いたので、日差しが戻り日が差すようになってきてからも、体感気温が低かったからである。それでも桜の開花は例年より早かったようだ。だが体感した気温の低さからは、春は遅いと感じていた。

    満開の桜は美しかった。私はいつものように、十和田市官庁街通りの桜を眺めて歩いた。多くの人出があった。穏やかな時が流れていた。とはいえ、世界を取り巻く政治経済社会状況は厳しさを増し、原油価格の高騰がいつまで続くのかといった不安もある。世界各地で続いている戦争に加え、不穏な事件や事故や災害が相次いだ。東北には大きな地震もあり、またその直後の山林火災もあった。

    わたしは散歩はしたかったが、体感気温の低い日が多く、その上風も強かったりすると、出かけそびれた。

    しかし、桜が散り始めた頃から、少しづつ散歩をするようになった。満開の桜が散り初め、若葉が見え始めた。すると、毎日、花と若葉の比率が変化していく。当然のことだが、若葉が増えていき、花は減っていく。その移り変わりの時期が、私はとても好きだ。満開の輝くような華やぐ生命の充溢よりも、一番元気な時期を少し過ぎて、落ち着きが見え始めたころ、季節の橋渡しをしている花と若葉の生きたやりとりが、生命の季節が時の流れの中にあるのだということを、如実に感じさせてくれる。

    季節は移ろう。どの季節も、その一時の季節に止まろうとはしない。どの季節も、それが過ぎゆくものであることを知っている。移ろうことこそが、季節のあり方の本質である。もはや移ろわなくなれば、それは季節ではないのだ。

    人生の季節を振り返って、四季の移ろいに思いを馳せないものはいない。人生は時の流れの中にある。それはいつだって、その時代に止まることはしない。というより、それはできないことなのである。

    「時間よ止まれ」という矢沢永吉の歌がある。もちろんそれは、人生の時間が止まらないからこそ、そう言いたくもなるのだ。

    「帰りこぬ青春」(Hier Encore/Yesterday when I was Young )という、シャルル・アズナブールの歌がある。それは痛いほどに、過ぎていった過去を振り返っている。

    ところで、今日の夕方近くになってから、散歩に出てみた。まだ日の明かるさはあったので、草花の写真を何枚も撮った。その一枚で、咲き始めている春から初夏の草花の隙間に、もうとっくに散ってしまったはずの桜の花びらが何枚か、その美しさを未だに保ったまま横たわっていた。

    この場所は、散った花びらの自然の隠れ場になっていたのだろうか。偶然そばに落ちてきただけの花びらだろう。たとえしばらくその形を留めたとしても、しばらくすれば、花びらは萎れて枯れ、地に帰ることはわかっている。それだのに、たまたま近くに落ちてきた花びらに、周囲の草花と地表の枯葉は天然の保湿を与え、暑さを凌ぐ陰をも提供した。そしてほんの短い時を共に過ごしているのである。誰にも気づかれず、静かに思い合う生命の営み。それはやはり美しい。

  • 細やかな視点

    細やかな視点

     しばらく前に、NHKのニュースの中でのインタビューであったと思うが、倉本聰さんが、新作映画について語りつつ、現代人の美意識についてあるいは美に対する感受性について話をされていた。倉本さんのお話しは、私なりに纏めると、現代人は美を感じる力が落ちてきているといった内容であったと記憶している。それには、まったく同感だった。

     美しいものの美しさは、もちろん作品の売買される価格で決まるものではない。たとえば、唐突ではあるが、同じ映画のジャンルで言えば、若いときに観た「ブラザー・サン シスター・ムーン」を思い出す。フランチェスコがすべての私財を捨てて、何も持たずにただ自然を愛し弱いものに仕えて生きることを決意する。そのとき、彼と彼に従った者たちには、すべての大自然の限りない美しさが見えていた。

     そこまで大げさな決断とまではいかなくても、それまでずっとこだわって来たものが、ある時、スーッと抜けていったりすることがあるものだ。そんな時、それまでとは少しも変わらない同じ暮らしをしているのに、毎日見ているものすべてが、これまで経験したことないような生き生きした風景に見え始めてくる。そして、何でもないささやかなものまでが、どれもみな、とても美しく愛おしいものに見えてくる。

     何気ない風景や佇まいに「美」を見るということは、本当は、そんなふうにして可能になってくるのではないだろうか。画家が何気ない風景を本当に美しく描けるのは、画家の眼が、そんなふうに、肩の力を抜いた眼で一切を観ているからなのだと思う。それは何かを捨てたからこそ、見え始めた美しさなのだ。

     なんでもないものの美しさに気づき、それにハッとさせられて見入ることができるのは、肩の力が抜けた時だと思う。そしてそれはまた、肩の力が抜けたときこころの中に生まれてくる、柔らかな思いにもつながる。そういった時には、ものを見ているときの心持ちにも変化が起こっていて、気づかぬうちに、自分の眼が「細やかな視点」を持ち始めているものだ。「細やかな視点」というのは、「細かいことにこだわった視点」という意味ではない。そうではなく、見ているものを、ザックリと簡単な言葉でラベル付けてして片づけたりしてしまわず、むしろ何かを見ているうちに、こころの中に静かにゆっくりと、まるで詩人のように、自分自身の言葉が自然と紡ぎ出されて来るような、心持ちの「細やかさ」のことである。(逆に言えば、レディメイドの誰かららの受け売りでしかない言葉など、使わないのである。)

     なんでもないものが、それが生きものであっても、また必ずしも生きものではなくても、とても愛おしく親しみをもったものとして感じられる。悠久の時間と無限に広がる宇宙の中で、あっという間に過ぎ去って行く、この限られた人生の時間の中で、偶然に出会ったものたち同士なのだ。だからこそ、その一つ一つの出会いそのものが、無限に愛おしく美しいのである。