十月に入り、暦の上では秋らしくなってもおかしくなかったのだが、しばらくの間、気温がそれほどには下がらなかったと記憶する。 やっと秋らしい涼しさが訪れた日に、暫くぶりに八千歩以上歩き、翌日には九千歩以上の散歩をした。それくらいの歩数を歩かないと、身体が鈍ってしまう。長めの散歩ができると、身体も心も軽くなり、気分も楽になる。
ここまで書いて、しばらく筆をおいていた。 今思い起こすと、上記の散歩のときには、官庁街通りの紅葉はまだ始まっていなかった。ちらほらと紅葉する枝が見えてはいたが、桜並木の街路樹はまだほぼ全体が緑の葉に覆われていた。それから少しずつ紅葉していったが、その進み方はゆっくりだった。やはり温暖化の影響か、秋に入ったようでいて、それらしくない暖かな日がときどきぶり返すと、姿を見せかけていた秋は、すっとどこかへ隠れていってしまうようだった。
男心と秋の空、あるいは女心と秋の空と言うべきか。姿を見せかけてはすっとまた隠れていく移ろいやすさは、待っている方としても心穏やかではなかった。この空模様と、なかなか秋になりきらない現代の秋初めのもどかしさを同列にするのが適切かどうかは諸賢のご判断を俟つが、やはり秋を待っていたわたしとしては、待ちぼうけのつらさ以上に、紅葉し切れない街路樹に対する茫漠とした不安を覚えざるを得なかった。
十月三十一日になって、朝から曇っていたものの気持ちのよい秋の涼やかな大気を感じたので散歩にでると、官庁街通りの桜並木は美しく色づき始めていた。 美しい。まだ緑の葉も残ってはいるものの、もう間違いなく秋の色へと移り始めていた。いつの間にか色づき始めた紅葉を見るのは、何かが季節とともに成長し、あるいは静かな成熟のプロセスを辿り始めたようで感慨深い。より鮮やかな色づきへ変化しようとしている、無限の細やかさを秘めた赤と黄の陰影の美しさは、一瞬の秋との出会いに眩い輝きを添えてくれていた。
そして、秋が進行していき、紅葉がそのもっとも美しい姿を見せてくれるものと思っていた。 秋は深まり、紅葉もさらに色づいていった。わたしはそれを楽しみはした。しかしその一方で、わたしは今年の紅葉が、少しいつもとは違う風貌を見せていることが気になっていた。
紅葉がさらに色づいていくのに、いつまでたっても、色づききれない緑色の葉が、どの桜にも他の樹木にも結構たくさん残っているのである。 せっかく成長し成熟して、その樹木のその季節としては「大人」の装いを纏っていてよいはずのときに、その一番の晴れ着の色が、着物の染色に失敗したかのように、中途半端な色づきのままなのである。
さらに秋が深まっていったが、その中途半端な色は、結局最後まで残ってしまった。 もしわたしがこの街路樹の親であったとすれば、やはり気がかりなことである。一番美しい晴れ着姿を期待していたのに、その着物の色付き方が中途半端に終わるというのは、つらいことである。
十一月に入り、だんだんと紅葉の盛りも過ぎていった。そのもっとも美しい数日間は、確かにとても美しかった。それを見ると、やはり樹木も秋の色づきを心から喜んでいるかのように見えた。 それからさらに数日すると、次第に紅葉が散り始めた。落ち葉が増え、木々の枝の紅葉も散っていった。そんな中で、注意してみると、もうかなりの落葉をしている樹木であっても、残った紅葉に混じって、なんといまだに緑色の葉が結構たくさん残っていたのである。それに気づいたとき、痛々しい気持ちになった。
紅葉の盛りの時には、わたしも美しさに眼を奪われ、いまだに緑の葉がたくさん残っていることには気がつかなかった。しかし、その美しさの陰には、こんなにたくさんの緑色の葉が隠れていたのだ。
どう見てもこれは地球温暖化によって、季節のうつろい方がこれまでとは違ってきていることの証左だろう。気温の下がり方の鈍さでもわかるが、秋が秋らしくならなかったことに対して、樹木は敏感に反応していたのだ。気温が十分に下がり、秋が秋らしく始まってくれないと、日本の樹木は、その季節感に合った美しい紅葉を見せることができないのである。
色づいた紅葉の話題で、この季節はテレビのニュースも満載だった。しかし、この「紅葉になりきれない樹木のもどかしさ」というよりも「苦しさ」を報じたものがあっただろうか。 あるインタビューで、紅葉を見た方が「紅葉とまだ残っている緑の葉の見せるグラデーションもまた美しい」と言っておられた。たしかに人間の目から見れば、緑のだいぶ残る紅葉のグラデーションは美しいし、風情がある。 しかし、その美しさは、樹木が本来見せたかった美しさだっただろうか。
温暖化の影響で帆立貝の稚貝が死ねば、それは甚大な被害をもたらす。また、もし温暖化の影響で森林の樹木の実のつき方に変化があれば、森の生態系が崩れ、熊をはじめとする野生動物の生態にかなりの異常が出るかもしれない。そういったことは実害もあり、誰もが心配する。 その一方で、地球温暖化によって紅葉の仕方に多少の異常があっても、多くの人はそれほど心配をしていないように見える。
しかし、自然を愛するということは、それに対する「attention(眼差し・注意)」を細やかに注ぐことでなければならないのではないか。 哲学者シモーヌ・ヴェイユが言うように「attentionを注ぐことが愛」なのである。 子供を細やかに見ていると、そのいつもと違う様子にすぐ気がつく。そして、それに注意深く対処することで、子供の生活の背後に隠れている危機に早く気がつき、対応できる。
もし、秋の紅葉を楽しむのなら、その樹木に対する細やかな眼(attention)を継続的に持たなければならないように思う。 折につけ散歩して、同じ樹木や草花を見ていると、その微妙な変化やいつもと違うことに気がつく。そして、それに細やかに反応することこそが、その樹木への愛なのである。満開の桜と、紅葉の盛りの時だけ、いっときの目の保養として消費するだけでは、この自然の危機を乗り切る知恵を育てるには、少し足りないように思えるのだ。
もう半分紅葉が散ってしまった樹木にも、緑の葉がまだ結構残っていた。それはまるで、「緑の紅葉」とでも呼べそうな、生命としての樹木の苦しさの訴えであるかのようにさえ思えた。














































