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夏の余韻
北東北の夏が終わろうとしている。昨日から夜がとても涼しくなった。朝晩が涼しくなったので、すでに猛暑の面影は失せた。
涼しくなると夏の疲労が出てくる。散歩しやすい時節になったが、しばらくは休息が必要だ。無理に散歩はせず、短いサイクリングをすることにした。 秋晴れのもと、ゆっくりサイクリングをするのは爽快だ。十和田市街はほぼまったく平坦なので、サイクリングにはもってこいの地形だ。午後の風は夏の火照りを失い、むしろ心地よく頬を撫でた。
今日は写真を撮らなかった。しかしわたしの脳裏には、去って行く夏の余韻がリフレインのように残っている。
2024.6.7. 2024.6.16 2024.6.16. 2024.6.17. 2024.6.17. 2024.7.2. 2024.7.6. 2024.7.11. 2024.7.14. 2024.7.18. 2024.7.31. 2024.8.6. 2024.8.6. 2024.8.10. 2024.8.11. 2024.8.11. 2024.8.15. 2024.8.15. 2024.8.16. 2024.8.17 2024.8.21. 2024.8.23. 2024.8.23. 2024.8.28. 2024.9.2. 暑かった夏の終わりが近づいたころから、秋を待ちきれない樹々の梢がもみじし始めた。
これから秋が深まれば、街には枯葉とそして別れを歌うジャジーな曲が流れ始める。
川底の空
午後になってから散歩に出た。 ・・・ 空。 秋の空は美しい。 高い梢の間から見上げる空には、どこか懐かしさを覚える。たぶん子供のころにも同じようにして、よく空を見上げていたのだ。
十和田市八甲公園。2024.9.3. 15:00. 同じ公園で。 2024.9.3. 15:01. 官庁街通りの歩道を流れる稲生川を覗いて見ると、川底に空が見えた。無限に広がる大空が小さな人工河川である稲生川の浅い川底に映っている。まるで大空と小さく細やかな流れが、無言のうちに光によって交信し合っているかのようだ。無限の宇宙と小さな河川の呼応と響応。 ・・・ あたかも存在すること、生命が存在すること、すなわちこの地球に生命が存在することの本来の在り方が、じつは大空と宇宙と小さな地球との呼応であり響応なのだということを、密かに告知しているように想われてくる。 なぜ人間だけがお互いに呼応することそして響応することの意味を見失ってしまったのか?
十和田市官庁街通り。 2024.9.3. 16:06. 同じ場所で。 2024.9.3. 16:00. 図書館で休んで、枕草子の現代語訳をパラパラとめくり、この歳になってやっとそのよさに目覚めた日本の古典文学にもっと触れなければと考えた。 夕刻になった通りに出て少し歩き、ちょうど西日が梢の間から溢れてきて背後から射している数頭の馬の像を見た。美しい。
十和田市官庁街通り。2024.9.3. 16:52. さらに陽が落ちると、もう半袖では寒くなってきた。この十和田市ですらあまりに暑かった季節が、終わろうとしている。
朝露、三題
昼頃から雨が降るというので、ゴミ出しに出た後、散歩に出た。朝露の降りた花と葉はとても美しい。
朝ゴミ出しの時官舎のフェンスにて撮影。十和田市、2024.9.2 8:00. 十和田市官庁街通り 2024.9.2. 8:51. 十和田市官庁街通り 2024.9.2. 8:52. ドイツの社会と政治について、ほとんど何も具体的にフォローして来なかった。しかし、ドイツの選挙で”極右”政党が躍進したというニュースには、やはり胸騒ぎと不安を覚える。何が起こっているのか学んで行かなければと、心中で深く反省する。移民や難民を受け入れることの難しさをほとんど何も知らない一日本人であるわたしだが、これは単に遠い国のことだから自分には関係がない、などと言っていて済まされる時代ではなくってきている。
朝露の美しさに眼を奪われながらも、この現実の世界で時々刻々と起こっている、我々人間社会の問題を覚えずにはいられない。
日々の散歩 Daily Walk
天気がよければ、散歩に出ることにしている。街を流れる川沿いを歩いたり、市街地を歩いたりする。
歩きながらときどき路傍の草木に眼を留める。季節によって草花や樹木の様子は変化するので、飽きることがない。ときどき深呼吸をしたり、ふと空を見上げたりする。空は常に変化しており、同じ空を見ることはない。青空であっても、青の色合いがじつにさまざまに変わる。雨上がりの後の早朝の青空など、眼も覚めるような深い輝きを持っていることがある。もしかしたら、ギリシアの空もこんなふうに深く輝いているのではないかと、行ったことがないので勝手に想像したりする。
散歩をしながら、よくスマホで写真を撮ることにしている。わたしのスマホには15,000枚近い写真が保存されている。その大半は散歩のときなどの風景写真だ。
散歩をしながら、いろいろなことをぼんやりと考える。意識的に何かを考えたりすることはしない。けれども景色を見ながら歩いているうちに、自然と心に浮かんでくることをいつのまにか考えていたりする。同じテーマにとくにこだわることもなく、歩いているうちに、気づくと路傍の花の美しさの方に心が奪われてしまい、それまでの思考がどこかへ消えてしまう。
いろいろなことをぼんやりと思い巡らすことを、心理学ではマンドワンダリングと呼ぶようである。マインドワンダリングが心理学のテーマとして研究されていることは、比較的最近ある本を手にして知った1。
これから散歩の時の随想をブログとして書いていこうと思う。散歩の随想の持つマンドワンダリングとしての意味合いについて、時折触れることができれば、と願っている。
十和田市官庁街通りで撮影。2024.8.21
- モシェ・バー(著),横澤一彦(翻訳) (2023)『マンイドワンダリング:さまよう心が育む創造性』勁草書房 ↩︎