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  • 夏の影 (Shadows of Summer)

    Overview: A record of a walk under the early summer sun. The intense light cast deep, vivid shadows at my feet. This post captures those fleeting moments where personal reflection and the captured scenery seamlessly come together through photos and words.

    なかなか暖かくなるのが遅いと思っていたのが、気が付くと桜の花も散り、いつの間にか、まだ5月とは思えないほどに枝々には大きく立派な葉が繁っている。

    温暖化の影響もあるのだろう。昨年は7月や8月の真夏の時期、あまりに大きく繁りすぎた葉の重みで、桜の枝が撓み、今にも折れそうになっているものをずいぶん見かけた。私の観察では、その後、桜やその他の街路樹などはかなり剪定されたようだった。その対策は正解だった。撓む枝もなくなり、見た目もかなりさっぱりしている。

    散歩は少しずつ復活させようと思っていたが、つい先日までは体感気温が低い日が多く、それがやっと暖かくなり始めたと思ったら、今度は急に夏のようになった。やはり、寒さと暑さの中間の季節感を覚えることが、ずいぶんと少なかった。

    散歩に行きそびれるのには、別の要因もあった。ウクライナでの戦争やイラン、アメリカ、イスラエルなどが関わる紛争のニュースが、毎日のように流れていたことだ。わたしはSNSなどで、海外からのニュース映像をアップロードされてすぐに見ることもある。想像を絶する爆撃や破壊の映像を見た後では、自分がのんきに散歩をし、世界で起きていることに対して何も感じていないかのように、草花や空の美しさのみを賞賛するブログを書く気持ちにはなれなかった。

    しかし、夏の光は確実に眩しくなってきていた。歩道脇の花壇に新たに植えられた草花も日々成長し、緑は濃く、花は美しく咲き始めていた。

    官庁街通りに差し込む日差しが、桜並木の豊かな葉の間を通り抜け、広い歩道に揺れる枝葉の影を落としていた。

    しばらく歩いていると、花壇の葉にも、枝葉からの木漏れ日が揺れている。

    さらに歩いていくと、何でもない道端のクローバーのカーペットにも、近くの樹木の影と、その隙間に落ちる木漏れ日があった。

    ふと、このような木漏れ日だけでもいいから、世界中のあらゆる街角に、ただそれがあってくれればいいのだとーー意味があるような、ないような、小さな想念が浮かんだ。

  • ジョウビタキ

    ジョウビタキ

     昨日も朝の外気には秋の冷たさがあった。いつもより早めに散歩に出た。散歩がもっとも充実するのは早朝だ。登ってくる朝日と冷えた大気に触れながら、朝露がまだ残る草花を探しながら歩くのは爽快だ。

     官庁街通りの歩道沿いに花壇で、いつものように手入れをされている方たちとはじめて短く挨拶を交わした。これだけの花壇を春の初めから秋の終わりまで、ずっと手入れをして守っておられるのには、頭が下がる。

     午後になって少し蒸し暑くなったが、今度は二人で近くまで散歩をした。その帰り道、近所の保全公園を歩いていると、草むらにスズメに似た野鳥が、少し躓きながら跳ねているのを見つけた。

     スズメによく似ていたが、よく見ると左右に黄色の羽根が飾りのようにあり、あまり見かけたことのない野鳥であることは、すぐ分かった。後で調べてみると、ジョウビタキという野鳥の写真とそっくりだったので、間違いないと思った。そのジョウビタキは明らかに弱っていた。歩き方が躓きながらだったし、もう飛ぶことはできないように見えた。

     チベットからバイカル湖を経て、越冬のために日本までやってくる渡り鳥である。まだ幼く見えたこのジョウビタキは、少し早めに日本まで渡ってきたものの、この蒸し暑さは予想外だったのではないだろうか。

     暑さで弱ってしまい、もしかしたらその上、期待したような餌も見つからなかったのではないだろうか。保護はできないものか、市役所や県の合同庁舎に電話してみたが、無理だった。夜は冷えたので、ジョウビタキには過ごしやすいのではないかと思っていた。夜が明け、ジョウビタキがまだ保全公園の草地にいるかどうか様子を見ながら散歩に出てみた。しかし、もう同じ場所にはいなかった。

     地球の一周の何分の一かの距離を渡ってきて、日本のちょうどこの街のこの公園の草地で、ひとり群れから逸れてただ弱っていたジョウビタキのことを思うと、やはり他人事のようには思えなかった。

     人が人生で渡っていく途方もない距離は、じつは空間的な距離ではなく時間的な距離だ。はるか彼方の生まれ故郷から何十年にも及ぶ時間の旅によってやっと辿り着いた街で、ひとり静かに死を迎えようとするとき、たまたまそこで出会った誰かがしずかに見守ってくれたなら、それだけで安心できるのではないだろうか。

     ふとそんな思いがして、ひとり亡くなって行こうとしていたジョウビタキのことを、今朝になってもどうしても忘れることができなかったのである。