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雨の桜通り
ちょうどイースターの日曜日(4月20日)に、官庁街通りの桜は満開になった。翌月曜日にローマ教皇が亡くなった。そして、4月23日水曜日の朝、満開の桜通りは冷たい雨に濡れていた。世界の平和を願い祈りながら天に召された教皇の死をいたむかのように、この日の桜通りには、涙のような雨がしとしとと降っていた。
4月20日 4月21日 4月22日 4月23日、雨模様の桜通り 4月20日日曜日、ミサに出る前、わたしは自宅から、春祭りの会場で開催されている園芸のコーナーの盆栽会のテントまで、ちょうど満開になっていたフジザクラの盆栽の鉢を手に持ち、歩いていった。十和田市官庁街通りは、ちょうど満開になったばかりで、車道は車の行列、両サイドの広い歩道にもかなりの人出があった。ほぼ晴れで、風もそれほど強くなかった。桜はほとんどまったく散っていなかった。
4月20日、春祭りの盆栽市展示 少し前からカトリックのミサにときどき出ていた私は、イースターの日もミサに行った。会堂は美しい花でかざられていた。いつもより多くの人が会堂の来ていた。神父の説教は日本語と英語とタガログ語でなされた。愛餐会に誘われて、信徒の皆さんと、ひととき楽しい時を過ごした。
4月20日、イースターミサ、十和田カトリック教会会堂 カトリック教会から南に少し歩いて、市の公民館まで行った。そこで十和田短歌会の4月例会に参加した。3月に一度お邪魔し、4月から参加させいただくことになっていた。2007年2月に船橋市で亡くなった母が、四半世紀にわたり参加し社友でもあった短歌結社「潮音」に、母を引き継ぐ意思をもって参加させていただき、その後数年間所属していた。仕事が忙しくなって、「潮音」を辞めさせていただいてから、十数年間短歌を読むことはなかった。
4月20日、短歌会で頂く それが知人に誘われて、3月に一度短歌会を覗かせていただいていた。短歌をやめたことは残念な想いがずっとあったこともあり、少し考えたのち、参加させていただきたいとお願いした。それで、少し急であったが、4月の例会からは会員として参加させたいただくことになった。久しぶりに、にわか仕立てで読んでみた歌は、満足のいく出来ではなかった。しかし、それをN先生から書き直していただくと、それは見違えるような歌に変貌した。
遅き春朝の光に温もりて言の葉記す八戸の街(筆者)
指折りて春の言の葉さがす朝八戸の街にも遅き春来る(先生)
どうみても、わたしの歌は凡作で、先生のはたいへん素晴らしい。妻に後で読んでもらうと、先生の歌の素晴らしさに感動していた。同じ文字数でこれほど違うのだと、わたしもたいへん驚いた。
短歌会が終わった後で、もう一度桜祭りの会場の盆栽会のコーナーにいくと、すでに二日間の日程を終えて、後片付けいをしていた。今年も、即売もされていた盆栽や鉢をいくつか分けていただいた。
その後しばらくの間、桜はあまり散らなかった。そして、ほぼ満開に近い見頃のままの状態が何日か続いた。例年より冷たい風が、いつまでも吹いていたことが、桜の花を長持ちさせたのか、それとも、昨年と比べるとかなりの剪定と手入れをした桜の樹々が元気を取り戻したのか、いずれにしても見事な桜をしばらくの間楽しむことができた。
ちょうどこの時期に、フランシスコ教皇が亡くなったことで、カトリック信徒ではない私でも強いショックを受けた。そして気持ちが沈んだ。世界のプロテスタント教会は、その多様性のゆえに、かえって多少普遍的な思想から離れたりしてはいないか心配になるケースもある。ところが、カトリックはフランシスコ教皇の発言からも窺えたように、かなり高い水準の普遍性を維持しているように感じられる。もしかしたら、同じような感想を持っている方もいるかもしれない。
十和田市は4月に入ってからも、夜は寒い日が多かった。日中もあまり暖かくない日も多く、毎日散歩をするというわけにも行かなかった。本当に春めく日というのが少ないのが、今年の春の特徴である。それがメンタル面でも、多層明るさと笑顔を奪ってしまっていたかもしれない。国際関係や経済も不安定さを増し、気象までもが必ずしも明るさをもたらしてくれはしない状態のまま、いつの間にか月末になり、ゴールデンウィークに入り、カレンダーも5月になった。
桜の花がとても美しかったのだけれども、どことなく元気がでないのは、戦争や災害や国際的な軋轢が、多くの人々の日常生活にも暗い影を落としているからではないだろうか。
知人からいただいたヒメリンゴとすみれが咲いた。寒い冬を越えて咲く花に慰めを見ている。
消えたクロッカス
今朝、家の庭で事件が起きた。クロッカスの花が無くなっていたのである。
今年は春めいてくるのが遅かったので、庭の花がなかなか蕾を見せなかった。この冬に青森市の知人からもらった紅梅の盆栽だけは、3月半ばにはかなり咲き始めたが、それは末頃までには散っていた。しかし、他の花は水仙にしてもチューリプにしてもクロッカスにしても、一向に成長してくる気配がなかった。
そんな中で、忘れかけていた少し大きめで浅い形の植木鉢に植えてあったクロッカスが、先陣を切って、花の中では最初に紫色の蕾をつけ始めていた。しかし、冷たい風の吹く日が多かったせいなのか、そのクロッカスの蕾はなかなか成長しなかった。開花するのはもう少し春めいてからだろうと、思っていた。
じつは、このクロッカスの鉢植えはもう枯れてしまったものと思って諦めていた。それで長い間そのまま放っておいたので、土の表に枯れた草や紛れ込んだ小石などが混ざってしまっていた。先日、これはもう捨てなくてはと思っていたその矢先に、小さなクロッカスの芽が出ていているのに気づいてびっくりしていた。昨日も、紫色の小さいが元気そうな蕾を見せていたので、もう少し暖かくなれば綺麗な紫色の花が開くだろうと期待していたのである。
2025.4.4. それが一夜開けて今朝になり、朝から春めいた日差しが差しきたので、今日こそは開花するだろうと思いつつふと庭先を見てみた。すると、何とクロッカスの蕾は消えていたのである。植木鉢はそのままいつもの場所にある。だがクロッカスの花が見えない。
2,025.4.5. 庭に出て注意して見てみると、間違いなかった。クロッカスの花が消えていたのである。それもなんと花の部分だけが、捥がれたようになくなっている。妻とわたしは大変驚いた。いつもミステリーを観ている妻が、まず推理をし始めた。これはどうみても、動物が食べてしまったのではないだろうか。しかし、わたしは疑った。動物がクロッカスの花を丸ごと食べたりするのだろうか。第一動物だとしても、まさか最近また出没して初めている熊が、ここまでやって来てクロッカスを食べていったのだろうか。もしかしたら、野鳥だろうか。しかし、野鳥にしても、クロッカスの花を食べたりするのだろうか。
突然降ってわいた事件に、妻とわたしは事件の真相を巡って議論を始めた。こんな時は、そうだ今流行りの生成AIに聞いてみようと思いついた。早速、野鳥がクロッカスの花を食べたりするのか聞いてみた。すると、さすがにこういう時には生成AIは便利なものである。わたしたちもまったく知らなかったのだが、ヒヨドリやスズメなどは、クロッカスの花を食べることがある、という答が返ってきたのである。生成AIは間違えることもあるとはいうが、おそらく野鳥がクロッカスの花を食べることはあるのではないだろうか。
そう確信したのは、事件現場の状態がやはり野鳥説と矛盾するものがなく、それらしい痕跡が他にもあったからである。というのは、鉢植えの近くに食べられてしまったクロッカスの花びらが一枚落ちていたのである。おそらく嘴で突いたものの、花びらを一枚落としてしまったのだろう。ヒヨドリにしてもスズメにしても、嘴の形状からすれば、やはり花びらが一枚剥がれ落ちたとき、それを再度啄んで食するのは困難であろう。
こうしてさまざま状況証拠から、おそらく犯人は野鳥である、とわたしたちは確信するに至った。しかしその野鳥がヒヨドリかあるいはスズメかはたまたそれ以外の野鳥なのかについては、真相は闇に包まれている。
しかし、ただもう一つ、もし野鳥が犯人だとすれば、それを犯人扱いするのもちょっとかわそうだと思ってしまった。第一、クロッカスの花はその野鳥にとっては貴重な食料だったわけである。クロッカスの花は、少し前に近所の庭先で咲いているのを見たことは見たが、それはこの辺では珍しく早咲きのクロッカスで、その後は街を散歩していてもいまだほとんど見かけない。
つまり、クロッカスが大好きな野鳥だったとすると、春が遅くなかなか咲いてくれないクロッカスが、一輪蕾だけでも咲きそうなのを見つけたとするなら、それを食するなという方が酷な気がする。むろん開花を待っていたわたしたちにとっては残念ではあるが、その野鳥にとっては、とても美味しいクロッカスの花を食べられたのだから、それはそれでよかったのである。
こうして、我が家の今朝の事件は、最終的な真相究明はできなかったものの、蓋然的には、庭にきたいずれかの野鳥のご飯になった可能性が高いということで、一件落着した。
しかし、それにしてもこんな事件が身近に起こるまで、クロッカスの花を食べる野鳥がいるということなど想像したこともなかった。人生はいつでもそれまでまったく出会ったことのないような出来事に遭遇し、それを通して学び続けていく道程なのだと改めて深く気づいた1日であった。
追記:後で、普通の検索をしてみると、クロッカスが食べられることはよくあることだと分かりました。鹿もウサギもそしてもちろん野鳥も食べるようで、園芸に詳しい方々にはよく知られたことだったようです。まだ園芸を始めたばかりの私たちにとっては、まだまだ知らないことがたくさんあるのだと知りました。
細やかな視点
しばらく前に、NHKのニュースの中でのインタビューであったと思うが、倉本聰さんが、新作映画について語りつつ、現代人の美意識についてあるいは美に対する感受性について話をされていた。倉本さんのお話しは、私なりに纏めると、現代人は美を感じる力が落ちてきているといった内容であったと記憶している。それには、まったく同感だった。
美しいものの美しさは、もちろん作品の売買される価格で決まるものではない。たとえば、唐突ではあるが、同じ映画のジャンルで言えば、若いときに観た「ブラザー・サン シスター・ムーン」を思い出す。フランチェスコがすべての私財を捨てて、何も持たずにただ自然を愛し弱いものに仕えて生きることを決意する。そのとき、彼と彼に従った者たちには、すべての大自然の限りない美しさが見えていた。
そこまで大げさな決断とまではいかなくても、それまでずっとこだわって来たものが、ある時、スーッと抜けていったりすることがあるものだ。そんな時、それまでとは少しも変わらない同じ暮らしをしているのに、毎日見ているものすべてが、これまで経験したことないような生き生きした風景に見え始めてくる。そして、何でもないささやかなものまでが、どれもみな、とても美しく愛おしいものに見えてくる。
何気ない風景や佇まいに「美」を見るということは、本当は、そんなふうにして可能になってくるのではないだろうか。画家が何気ない風景を本当に美しく描けるのは、画家の眼が、そんなふうに、肩の力を抜いた眼で一切を観ているからなのだと思う。それは何かを捨てたからこそ、見え始めた美しさなのだ。
なんでもないものの美しさに気づき、それにハッとさせられて見入ることができるのは、肩の力が抜けた時だと思う。そしてそれはまた、肩の力が抜けたときこころの中に生まれてくる、柔らかな思いにもつながる。そういった時には、ものを見ているときの心持ちにも変化が起こっていて、気づかぬうちに、自分の眼が「細やかな視点」を持ち始めているものだ。「細やかな視点」というのは、「細かいことにこだわった視点」という意味ではない。そうではなく、見ているものを、ザックリと簡単な言葉でラベル付けてして片づけたりしてしまわず、むしろ何かを見ているうちに、こころの中に静かにゆっくりと、まるで詩人のように、自分自身の言葉が自然と紡ぎ出されて来るような、心持ちの「細やかさ」のことである。(逆に言えば、レディメイドの誰かららの受け売りでしかない言葉など、使わないのである。)
なんでもないものが、それが生きものであっても、また必ずしも生きものではなくても、とても愛おしく親しみをもったものとして感じられる。悠久の時間と無限に広がる宇宙の中で、あっという間に過ぎ去って行く、この限られた人生の時間の中で、偶然に出会ったものたち同士なのだ。だからこそ、その一つ一つの出会いそのものが、無限に愛おしく美しいのである。
リズムの喪失-その2
歳を重ねたからだろうか。以前はそれほどには興味を持たなかった日本映画をときどき観るようになった。少し古い昭和時代の映画を観ると、とても懐かしく思う。若い頃から、それほど頻繁に映画を観ることはなかった。ただ、もちろん、たまにはヒット作などを観てはいたのだが。
つい暫く前だったが、インターネットにアップロードされていた映画「少年時代」を観た。映画は、1945年日終戦の1年ほど前に、東京で家族と住んでいた小学生が、富山県の片田舎の親類宅に一人で疎開するところから始まる。わたし自身行ったこともない富山の、しかもわたしが生まれるより10年も前の時代の田舎の風景、そこに佇む古びた木造の小学校とその周囲に薄く広がる人々が暮らしている街の家並み、そして小学校の生徒たちの間に展開していく、子供ながらにもさまざまな人間模様を織り成すドラマのような一年の四季の移り行き。
戦争が終わって、東京から母親が迎えにくる。そして、母は一言、東京は空襲で大変だったと子に語るが、広島と長崎の原爆には言及しない。しかし、映画に感情移入しているわたしにからみれば、ああこの時はまだ戦争が終わったばかりだったということは、広島と長崎はまさに原爆の被害の直後であった時なのだという想いなど、映画の中で描かれてはいない苦しみをも連想してしまうのを止めることができない。
この映画の描き方が、時代の雰囲気をじつによく捉えているので、観ていながらその時代にいるような気持ちになるのである。わたし自身は昭和28年生まれだ。だから、昭和19年から20年までの一年間の記憶はもちろんない。しかし、現代からみれば昭和28年から数年ほどの時代は、まだまだ戦後すぐの時代の雰囲気をかなり残していたと思う。それに、わたしの両親は終戦の年には父がほぼ20歳で母は10代であったから、どうしても両親の人生を思うたびに、彼らが生きた厳しい時代への想いが湧き出てきてしまう。
ネットで観た映画「少年時代」は、最後の部分で、主人公が汽車に乗って東京に帰るときに流れる井上陽水の「少年時代」の音声が、おそらく著作権の関係でカットされていた。それで、わたしは別の音楽配信で「少年時代」を聴きながら、映画のエピローグ部分を観て、その雰囲気に浸った。自分の経験でもないし、自分の生まれる10年も前の時代を描いたのに過ぎなかったのに、わたしはなぜか懐かしさで胸がいっぱいになった。
その時代がよい時代だったというのではない。それはひどい時代だった。映画の中頃で、恋人が出征するので半ば気が狂ったようになった若い女性が出てくる。その描写はじつに写実的で、じっさいそういう人がいたに違いないと確信してしまう。それなのにどうしてその時代を懐かしく感じるのか、自分でもよくわからない。
じつは、わたしはこの映画と前後して、丹波哲郎が刑事役をした、松本清張原作の「砂の器」の映画も観ていた。これはストーリーはフィクションだが、時代背景としては、やはり戦中から戦後の日本の生活がある。これもクライマックスで、主人公が子供時代にハンセン病を患う父親と二人きりで裏日本を放浪する場面の回想が入る。回想場面は、芥川也寸志作曲の音楽の盛り上がりと共に、病む父と子の二人だけの放浪がいかに苦しかっただろうかという視点をじつによく描いている。
この映画にも、わたしはどうしようもない懐かしさを感じてしまう。それはフィクションだし、テーマはじつに苦しい人間の生活なのだが、しかし、おそらく、そこにある抵抗できないほど豊かな人間的な感情の世界が、その善し悪しに関わらず、懐かしくてたまらなくなってしまうのではないだろうか。
さて、それがどうして「リズムの喪失」につながるのかと言えば、この2つの映画で描かれている夏、冬、春、秋は、じつにそれぞれ四季らしい四季なのだが、それらがどうしてかはわからないが、人生の四季をも同時に深く描いているとしか思えないのである。四季はただ自然の四季なのではない。それは人生の四季とつながる、とういよりむしろ人生の四季そのものですらあるように思えてしまう。
そうった四季の感覚が、いつのまにか現代の自然から消えてしまったように感じるのは、やはりわたしが高齢になったからということだけなのであろうか。今、散歩をしながら、わたしはどこかで昔のような四季らしい四季を探しているのかもしれない。昔のように夏らしい夏、冬らしい冬、春らしい春、そして秋らしい秋である。植物さえ四季を間違える時代になって、人間もまた人生の四季を味わいつつ成長し成熟し老いてゆく時の流れを失いつつあるように思えてならない。
リズムの喪失
しばらく前だったが、奈良県南部の彼岸花が例年より遅れて一斉に開花したというニュースを見た。開花が遅れたのは、夏の気温が高かったことが影響しているという話であった。
今年の夏が異常な高温だったことにもよるだろうが、近頃散歩をしながら路傍の草木を見ていると、季節外れの花が咲いているのをよく見かける。それは開花の時期が多少遅れたいうよりは、明らかに狂い咲としか言えない季節外れの開花である。
わたしがはじめて季節外れの花に驚いたのは、もう何年も前のことである。その頃は千葉県の都市部に住んでいた。ある年の秋、すでに10月の後半くらいになっていたのではないかと思うが、見慣れていたマンションの玄関アプローチに作られていた小さな花壇の紫陽花が一輪だけ狂い咲きしていたのである。そのような狂い咲きに気がついたのは、そのときがはじめてだった。
だいたい紫陽花をいうのは梅雨の時期に一斉に咲くものである。多少の開花の時期のズレはあるものの、以前はおおよそその時期にどこでも開花していた。だから、紫陽花は梅雨の時期に相応しい雰囲気を自然に帯びていた。雨がしとしと降る梅雨寒の時期に街を歩いていると、路傍の花壇や近くの家の庭先にさまざまな色の紫陽花がその美しさを競うように咲いていた。それは長雨が続き梅雨の鬱陶しさで少し息苦しいような感じがしたりするときに、ふと目を止めるものの心を慰めてくれる鮮やかさと新鮮さと繊細さを兼ね備えていた。
梅雨が終わって真夏になっても、しばらくは紫陽花の花は咲き続ける。しかし、盛夏を過ぎるころになると、いつのまにか紫陽花はほとんど枯れてしまっている。そして、ふと気がつくとそれまで美しい花を咲かせていた紫陽花の株には、枯れた紫陽花の花びらが満開のときの形をとどめたまま、枯れ果てた姿を見せている。紫陽花は咲いているときはとても美しいが、枯れたときの姿がちょっと寂し過ぎると言うひとがいた。そんなふうにして、だれもが紫陽花の咲く季節とそれがいつのまにか枯れてしまう季節の移り替わりを、ほぼ無意識のうちになぞりながら、四季が美しく移ろいいく日本の風景の中で生活していることの持つ季節感の豊かさを味わい楽しんでいたのである。
その紫陽花が狂い咲くのを、その後毎年のように気づくようになった。それは東京都や千葉県などの関東地方でもそうだったし、その後十和田市に住むようになっても同様だった。いやむしろ狂い咲く花々を見るのは、いつの間にか日常茶飯事になってしまっていた。
それまでは春にのみ咲くのを見ていたツツジなども、今年は秋が深まるころになってからも、あちこちで見かけるようになった。この狂い咲きの常態化にまだ気づいていない人は、少ないのではないだろうか。
紅葉の始まり方がたどたどしくなってきたように感じるのも、わたしだけではないだろう。夏が終わって多少涼しくなりかけたころに、毎年紅葉する樹木の葉のほんの一部が、先走るのを申し訳なく思っているかのように、控えめに色づく。ところが翌日には、また気温が高めにぶり返すので、紅葉の勢いは止まってしまう。それどころか、まだ紅葉していない多くの枝の他の葉たちは、むしろ真夏のようにその青さを増し、青々とはつらつとした濃い緑を復活させたりするのである。
この項目を書き始めたのは、1、2週間前であった。その後、まだまだ結構暖かい日があったりしたので、市街地の紅葉はなかなか進まなかった。この一両日やっと最低気温もかなり冷えるようになり、市街地の紅葉も始まってきている。十和田湖など、もう少し山に近い方に行けば、紅葉は見頃になってきているようなので、市街地の紅葉も次第に見頃を迎えることにはなるだろう。
紅葉の美しさに心を洗われるのを待ち焦がれる思いに変わりはないが、春も秋もわからなくなってしまったような狂い咲きがこれほど頻繁に見られるようになった日本の風土で暮らしているのだから、ともかく今年も紅葉を楽しめさえできればそれで満足だといった、安穏とした季節感に浸ることはできない。
四季のリズムがかくも激しく喪失した日本の風土を、どうやって本来の生命的なリズムを刻んでいた、人と社会のリズミカルな成熟をも支えるほどの豊かなリズムに回復させたらよいのかという、深刻な問題に立ち向かう責任の重大さを噛み締めながら、紅葉し始めてきた桜並木の下をひとり歩いている。
ジョウビタキ
昨日も朝の外気には秋の冷たさがあった。いつもより早めに散歩に出た。散歩がもっとも充実するのは早朝だ。登ってくる朝日と冷えた大気に触れながら、朝露がまだ残る草花を探しながら歩くのは爽快だ。
官庁街通りの歩道沿いに花壇で、いつものように手入れをされている方たちとはじめて短く挨拶を交わした。これだけの花壇を春の初めから秋の終わりまで、ずっと手入れをして守っておられるのには、頭が下がる。
午後になって少し蒸し暑くなったが、今度は二人で近くまで散歩をした。その帰り道、近所の保全公園を歩いていると、草むらにスズメに似た野鳥が、少し躓きながら跳ねているのを見つけた。
スズメによく似ていたが、よく見ると左右に黄色の羽根が飾りのようにあり、あまり見かけたことのない野鳥であることは、すぐ分かった。後で調べてみると、ジョウビタキという野鳥の写真とそっくりだったので、間違いないと思った。そのジョウビタキは明らかに弱っていた。歩き方が躓きながらだったし、もう飛ぶことはできないように見えた。
チベットからバイカル湖を経て、越冬のために日本までやってくる渡り鳥である。まだ幼く見えたこのジョウビタキは、少し早めに日本まで渡ってきたものの、この蒸し暑さは予想外だったのではないだろうか。
暑さで弱ってしまい、もしかしたらその上、期待したような餌も見つからなかったのではないだろうか。保護はできないものか、市役所や県の合同庁舎に電話してみたが、無理だった。夜は冷えたので、ジョウビタキには過ごしやすいのではないかと思っていた。夜が明け、ジョウビタキがまだ保全公園の草地にいるかどうか様子を見ながら散歩に出てみた。しかし、もう同じ場所にはいなかった。
地球の一周の何分の一かの距離を渡ってきて、日本のちょうどこの街のこの公園の草地で、ひとり群れから逸れてただ弱っていたジョウビタキのことを思うと、やはり他人事のようには思えなかった。
人が人生で渡っていく途方もない距離は、じつは空間的な距離ではなく時間的な距離だ。はるか彼方の生まれ故郷から何十年にも及ぶ時間の旅によってやっと辿り着いた街で、ひとり静かに死を迎えようとするとき、たまたまそこで出会った誰かがしずかに見守ってくれたなら、それだけで安心できるのではないだろうか。
ふとそんな思いがして、ひとり亡くなって行こうとしていたジョウビタキのことを、今朝になってもどうしても忘れることができなかったのである。
去り行く季節
1日が終わろうとするのを、誰も止めることはできない。沈み行く西日がわずかに射していた十和田市民図書館脇の歩道は、間もなく暮れて行こうとしていた。
2024.9.9. 16:56. 同様に季節が過ぎ去って行くのを、誰も押し止めることはできない。歩道の花壇に植えられた夏の草花にも、少しずつ枯れ始めた花が混じるようになってきた。枯れた花はたいてい人からは顧みられない。しかしよく注意してみると、花の一生が次第に終わって行くあり様は、どこか人の一生にも似て、枯れて行くものの美学を垣間見るような気がする。
2024.9.9. 16.49. 太陽が沈んで日が暮れても、世界が終わったりはしない。むしろ夕闇の涼やかさの中に静かな休息の時が訪れる。夜の暗さは必ずしも不安を呼び起こすことはない。こころを静めて耳を澄ませば、無数の秋の虫たちが鳴き始める。
ところで、わたしはペリー・コモ Perry Como の歌うAnd I love you so が好きだ。しかし、その歌詞には少しだけ頷けない部分がある。
And yes, I know how lonely life can be.
The shadows follow me and the night won’t set me free.
But I don’t let the evening get me down.
Now that you are around me.
というところである。
これを解釈すると、わたしは人生がどんなに孤独か知っている、そして、夜の翳りはわたしを孤独から解き放つことなくむしろ辛さが増してしまうが、あなたが側にいてくれるようになったので、もう夕暮れになっても辛くはない、といったような意味になるだろう。
この歌が人生の孤独の辛さがどれほど苦しいかを表現していることに、わたしは深い共感を覚える。しかし、その孤独を夜の闇と重ね合わせることには、必ずしも同意しない。
というのは、ここでは具体的な人間が「あなた」として存在することが、唯一の癒しの源泉になっていて、対極的に「あなた」のいない夜の闇は辛さをもたらすものとして、否定的にのみ捉えられているように見える。
しかし、人間が自然の中で生かされているという事実に鑑みれば、夜の静けさと涼やかさには、むしろ人間を取り巻く自然の生命的な脈動あるいは鼓動が潜んでいる、とさえ言える。そういった自然のもつ生命的な脈動や鼓動に気づき、静かに共鳴していくときにこそ、他の人間である「あなた」との出会いもまた、本来的な深さの次元を持ちうるのではないだろうか。つまり、人との出会いは、自然との出会いを背景として持っているのではないかと思えるのである。
静まり返った夜に聴く秋の虫の声や風の囁きの中にこそ、むしろ静かな自然との本来的な出会いがあるのではないかと思える時がある。そしてそのとき、もし側に誰かがいれば、その出会いは永遠の出会いになっていくかもしれないのである。
祭りの夜
1、2年前に山野草の盆栽をもらった。もらった時は、あまり元気な盆栽ではなかった。それをほとんど手入れもせず庭に置いておいた。すると冬を越し、いつの間にか元気になっていた。もう夏も過ぎ、盆栽自体はしだいに秋の風情へと移りかけていたが、昨日ふと見ると、小さな枝にキアゲハの幼虫が2匹いるのに気づいた。セリ科の植物の葉が好きだそうで、「にんじん畑の貴婦人」と呼ばれるほど美しい幼虫だ。庭ではあまり除草剤などは使わず、できるだけ自然のままにしておくようにしていた。いつの間にかキアゲハが卵を産みつけていたのだろう。
2024.8.8. 2024.9.8. 出会いは人生の楽しみというより、むしろ人生そのものだ。子供のころ住んでいた家では、じつにさまざまな生き物との出会いがあった。もっと幼いころ住んでいた別の場所では、地域全体が、その時代ということももちろんあったが、自然の豊かさに満ち満ちていた。夏の夜、裏庭の外のせせらぎから蛍が何匹も舞って来て、窓を開け放した家の中へ入ってきた。それを蚊帳の中に入れて、緩やかに点滅する蛍の光に魅了されていた。そのころは、人との関わりももちろん濃密で、つねに出会いがあった。
自分の住んでいる場所で、その地域の盛大な祭りを歩いて観にいくといういわばレトロな経験を、今日という日に、今ここで経験することになるとは、予想しなかった。
町内会で秋祭りに参加するということで、そのお手伝いをほんの少しだけ、昨日(9月6日)させていただいた。夜慰労会に行くと、今日(9月7日土曜日)の夜の山車のパレードが一番見ものだから、ぜひ観た方がよいと強く勧められた。それで始めて、本腰で夕方暗くなりかけるのを待って、妻と二人で夜の十和田市秋祭りを観に行った。
次第に暗くなってくると、多くの壮麗な山車が子供たちと若者たちによって引かれ、掛け声を伴った元気よい十和田囃子と太鼓車の上の力強い太鼓の演奏が響き渡った。広くまっすぐな大通りである十和田市官庁街通りには、数えきれないほどの夜店が並び、ライトアップされた広い歩道やその近くに陣取って見物する人、夜店の前を歩きながら見物する人たちで、たいへんな賑わいだった。
2024.9.7. 19:28. 2024.9.7. 19:28. 2024.9.7. 19:44. 2024.9.7. 19:24. 2024.9.7. 19:29. 2024.9.7. 19:27. 歌謡曲の歌詞とはまったく違う意味だが、出会いはスローモーションである。70歳を過ぎて、貴婦人のようなキアゲハの幼虫と自分の家の庭で出会うとは思わなかった。また、自分の住む街で、こんなに盛大な祭りを妻と共に観ることになるとは思わなかった。それはまったく新しい経験なのに、一種の不思議なレトロ感に満ちていた。
あたかも過去と現在と未来が、SF作品の中で融合したかのような光景が、現実のこととして眼の前にあった。そして、自分が過去と出会ったのか、それとも未来と出会ったのか分からなくなるような祝祭的時空の眩惑の中で、まるで時がスローモーションのようにゆっくりと流れて行くのを感じていた。
夏の余韻
北東北の夏が終わろうとしている。昨日から夜がとても涼しくなった。朝晩が涼しくなったので、すでに猛暑の面影は失せた。
涼しくなると夏の疲労が出てくる。散歩しやすい時節になったが、しばらくは休息が必要だ。無理に散歩はせず、短いサイクリングをすることにした。 秋晴れのもと、ゆっくりサイクリングをするのは爽快だ。十和田市街はほぼまったく平坦なので、サイクリングにはもってこいの地形だ。午後の風は夏の火照りを失い、むしろ心地よく頬を撫でた。
今日は写真を撮らなかった。しかしわたしの脳裏には、去って行く夏の余韻がリフレインのように残っている。
2024.6.7. 2024.6.16 2024.6.16. 2024.6.17. 2024.6.17. 2024.7.2. 2024.7.6. 2024.7.11. 2024.7.14. 2024.7.18. 2024.7.31. 2024.8.6. 2024.8.6. 2024.8.10. 2024.8.11. 2024.8.11. 2024.8.15. 2024.8.15. 2024.8.16. 2024.8.17 2024.8.21. 2024.8.23. 2024.8.23. 2024.8.28. 2024.9.2. 暑かった夏の終わりが近づいたころから、秋を待ちきれない樹々の梢がもみじし始めた。
これから秋が深まれば、街には枯葉とそして別れを歌うジャジーな曲が流れ始める。
川底の空
午後になってから散歩に出た。 ・・・ 空。 秋の空は美しい。 高い梢の間から見上げる空には、どこか懐かしさを覚える。たぶん子供のころにも同じようにして、よく空を見上げていたのだ。
十和田市八甲公園。2024.9.3. 15:00. 同じ公園で。 2024.9.3. 15:01. 官庁街通りの歩道を流れる稲生川を覗いて見ると、川底に空が見えた。無限に広がる大空が小さな人工河川である稲生川の浅い川底に映っている。まるで大空と小さく細やかな流れが、無言のうちに光によって交信し合っているかのようだ。無限の宇宙と小さな河川の呼応と響応。 ・・・ あたかも存在すること、生命が存在すること、すなわちこの地球に生命が存在することの本来の在り方が、じつは大空と宇宙と小さな地球との呼応であり響応なのだということを、密かに告知しているように想われてくる。 なぜ人間だけがお互いに呼応することそして響応することの意味を見失ってしまったのか?
十和田市官庁街通り。 2024.9.3. 16:06. 同じ場所で。 2024.9.3. 16:00. 図書館で休んで、枕草子の現代語訳をパラパラとめくり、この歳になってやっとそのよさに目覚めた日本の古典文学にもっと触れなければと考えた。 夕刻になった通りに出て少し歩き、ちょうど西日が梢の間から溢れてきて背後から射している数頭の馬の像を見た。美しい。
十和田市官庁街通り。2024.9.3. 16:52. さらに陽が落ちると、もう半袖では寒くなってきた。この十和田市ですらあまりに暑かった季節が、終わろうとしている。