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  • 遅れてきた紫陽花

    遅れてきた紫陽花

    9月に入ってからのことだ。紫陽花の季節はとっくに終わり、ほとんどの花はすっかり枯れてしまっていた。ところがある日、もう枯れ切ったと思っていた紫陽花の株の脇を歩いていたとき、一輪だけ、まだ若い青紫の花が残って咲いているのに気がついた。

    以前にも、季節外れに不時咲きする紫陽花を見かけることはあった。しかし今年改めて気づいたのは、それが単なる「不時咲き」と言うにはあまりに頻繁で、あちこちで同時に起こっているということだった。似たように枯れきったように見える株のあちこちに、同じようにぽつんと一輪だけ、若い紫陽花の花が咲いているのだ。

    これがどういうことなのか、歩きながらも、考えずにはいられなかった。一通り紫陽花の季節が終わって枯れたあとも、近年の温暖化の影響もあってか、暑くなったかと思えば急に涼しくなったりと、季節の境界が分かりにくくなった。秋に入ってからも、また夏の間もそうだった。そうした季節の乱れによって、紫陽花が惑わされたのだろうか。

    あるいはまた、株全体が枯れ切ったように見えても、その中に一輪遅れて咲く花があるということが、紫陽花という植物のもともとの特徴なのだろうか。

    調べてみると、確かに地球温暖化によって開花時期がずれ、「不時咲き」が起きやすくなるということはあるようだ。一旦ほとんどの花が枯れて休眠に入りかけた株が、季節感を失い、遅れて咲いてしまうということなのであろう。一方で、地球温暖化とは関係なく、ひとつの株の中で早く咲くものもあれば、全体が咲き終わったあとに遅れて咲くものがあるというのも、植物の命の自然なリズムであるらしい。実際には、おそらく、そのふたつの要因が複雑に絡み合っているのだろう。

    しかしそれにしても、日々の散歩を通して実感するのは、季節の移ろいが以前にも増して曖昧になったということだ。かつてのように、春夏秋冬が順を追って分かりやすく移り替わることがなくなってしまった。暑くなったかと思うと突然冷え込む。春になったはずなのに寒さがいつまでも残る。夏に入ってもなかなか気温が上がらないかと思えば、梅雨が明けた途端に一気に猛暑へと突き進む。

    秋もまた然りだ。いつから本当に秋になったのかが分かりにくい。夏の終わりに少し涼しい日が続き、楓などが紅葉し始めたかと思うと、翌日には再び真夏のような気温に逆戻りする。せっかく紅く色づき始めた葉は、急な暑さのぶり返しでしおれてしまう。順当に季節が移り変わっていた頃には、紅葉した葉が暑さでしおれることなど考えられなかった。

    「もう秋だ」と思って葉を紅く染めたものの、再びやってきた暑さに負けて、しおれてしまう。そうした姿をいつもの散歩道で眼にすると、私は樹木たちの「人生」というか、その日々の命の営みがどれほど大変なことだろうかと、心を痛めるようになった。

    一体われわれは、このような天候の不順によって、自然から「季節らしさ」が失われつつあることに対して、どれほどの注意を払っているだろうか。春の満開の桜を楽しみ、秋の紅葉を愛でること自体は、今も昔と変わらず行われている。

    しかし、花を愛でるということは、「満開の桜」とか「錦の紅葉」という言葉によって、あらかじめラベルをつけて切り取られた景色を、まるで商品のように消費・享受することではないはずだ。

    花には花の命がある。本当に花を愛するのであれば、花が咲く前も、そして花が散ったあとも、その樹木を見つめ続けるはずである。

    枯れ木には枯れ木の美しさがある。冬が終わり、一見すると枯れているような枝から小さな芽が吹き、それがしだいに育って蕾となる。そして、やがて花が開く。その過程はまるで子どもが成長していくかのようでもあり、見守る者に自然の生命の喜びを分かち与えてくれる。だからこそ、満開に咲き誇る桜を見たとき、我が子が成長して成人したかのような誇らしさと愛おしさを心から感じることができるのだ。

    そのようにして花や木に寄り添うならば、季節にそぐわない時期に苦しげに咲いたり、満足に紅葉もできずにしおれていく姿を見ると、あたかも成長の途中で障害に苦しんでいる子どもを見るかのように、その生命の営みの辛さや痛みが伝わってくるはずだ。

    樹木であれ草花であれ、毎日同じ道を歩き、同じ生き物を見つめていれば、ふとした変化や異変に気づくことになる。そうした小さな変化に気づく「注意の目」を持ってはじめて、私たちは本当に満開の桜を愛で、美しく紅葉した樹木を慈しむことができるのではないだろうか。

    地球温暖化の議論には様々な意見があり、中にはそれを否定するような声もある。しかし、データや言論だけに頼るのではなく、まずは毎日の散歩を通じて身近な植物や昆虫、生き物たちの生命の営みに眼を向けること。身近な生命に対する「配慮と注意の目」を持ち続けることによって、いま地球上の生態系に何が起きているのかを、自らの肌感覚で捉えることが何より大切なのではないか。

    これほど大きな季節の変調が起きていることに無頓着でいることは、もはや許されないことのように思える。地球温暖化の問題をデータに基づいて論じることも重要だが、同時に自分自身の眼で、実際に身の回りの生き物たちがどのような苦しみや負荷を受けているのかを感じ取ること。その身体的な実感を通してこそ、私たちの住むこの地球という生態系がいまどれほど過酷な状況にあるのかを、真に理解する道が開けるのだと思う。

    小振りなる紫陽花の花遅れ来て臆すことなくひとり咲きをり

  • 緑の紅葉

    十月に入り、暦の上では秋らしくなってもおかしくなかったのだが、しばらくの間、気温がそれほどには下がらなかったと記憶する。 やっと秋らしい涼しさが訪れた日に、暫くぶりに八千歩以上歩き、翌日には九千歩以上の散歩をした。それくらいの歩数を歩かないと、身体が鈍ってしまう。長めの散歩ができると、身体も心も軽くなり、気分も楽になる。

    ここまで書いて、しばらく筆をおいていた。 今思い起こすと、上記の散歩のときには、官庁街通りの紅葉はまだ始まっていなかった。ちらほらと紅葉する枝が見えてはいたが、桜並木の街路樹はまだほぼ全体が緑の葉に覆われていた。それから少しずつ紅葉していったが、その進み方はゆっくりだった。やはり温暖化の影響か、秋に入ったようでいて、それらしくない暖かな日がときどきぶり返すと、姿を見せかけていた秋は、すっとどこかへ隠れていってしまうようだった。

    男心と秋の空、あるいは女心と秋の空と言うべきか。姿を見せかけてはすっとまた隠れていく移ろいやすさは、待っている方としても心穏やかではなかった。この空模様と、なかなか秋になりきらない現代の秋初めのもどかしさを同列にするのが適切かどうかは諸賢のご判断を俟つが、やはり秋を待っていたわたしとしては、待ちぼうけのつらさ以上に、紅葉し切れない街路樹に対する茫漠とした不安を覚えざるを得なかった。

    十月三十一日になって、朝から曇っていたものの気持ちのよい秋の涼やかな大気を感じたので散歩にでると、官庁街通りの桜並木は美しく色づき始めていた。 美しい。まだ緑の葉も残ってはいるものの、もう間違いなく秋の色へと移り始めていた。いつの間にか色づき始めた紅葉を見るのは、何かが季節とともに成長し、あるいは静かな成熟のプロセスを辿り始めたようで感慨深い。より鮮やかな色づきへ変化しようとしている、無限の細やかさを秘めた赤と黄の陰影の美しさは、一瞬の秋との出会いに眩い輝きを添えてくれていた。

    そして、秋が進行していき、紅葉がそのもっとも美しい姿を見せてくれるものと思っていた。 秋は深まり、紅葉もさらに色づいていった。わたしはそれを楽しみはした。しかしその一方で、わたしは今年の紅葉が、少しいつもとは違う風貌を見せていることが気になっていた。

    紅葉がさらに色づいていくのに、いつまでたっても、色づききれない緑色の葉が、どの桜にも他の樹木にも結構たくさん残っているのである。 せっかく成長し成熟して、その樹木のその季節としては「大人」の装いを纏っていてよいはずのときに、その一番の晴れ着の色が、着物の染色に失敗したかのように、中途半端な色づきのままなのである。

    さらに秋が深まっていったが、その中途半端な色は、結局最後まで残ってしまった。 もしわたしがこの街路樹の親であったとすれば、やはり気がかりなことである。一番美しい晴れ着姿を期待していたのに、その着物の色付き方が中途半端に終わるというのは、つらいことである。

    十一月に入り、だんだんと紅葉の盛りも過ぎていった。そのもっとも美しい数日間は、確かにとても美しかった。それを見ると、やはり樹木も秋の色づきを心から喜んでいるかのように見えた。 それからさらに数日すると、次第に紅葉が散り始めた。落ち葉が増え、木々の枝の紅葉も散っていった。そんな中で、注意してみると、もうかなりの落葉をしている樹木であっても、残った紅葉に混じって、なんといまだに緑色の葉が結構たくさん残っていたのである。それに気づいたとき、痛々しい気持ちになった。

    紅葉の盛りの時には、わたしも美しさに眼を奪われ、いまだに緑の葉がたくさん残っていることには気がつかなかった。しかし、その美しさの陰には、こんなにたくさんの緑色の葉が隠れていたのだ。

    どう見てもこれは地球温暖化によって、季節のうつろい方がこれまでとは違ってきていることの証左だろう。気温の下がり方の鈍さでもわかるが、秋が秋らしくならなかったことに対して、樹木は敏感に反応していたのだ。気温が十分に下がり、秋が秋らしく始まってくれないと、日本の樹木は、その季節感に合った美しい紅葉を見せることができないのである。

    色づいた紅葉の話題で、この季節はテレビのニュースも満載だった。しかし、この「紅葉になりきれない樹木のもどかしさ」というよりも「苦しさ」を報じたものがあっただろうか。 あるインタビューで、紅葉を見た方が「紅葉とまだ残っている緑の葉の見せるグラデーションもまた美しい」と言っておられた。たしかに人間の目から見れば、緑のだいぶ残る紅葉のグラデーションは美しいし、風情がある。 しかし、その美しさは、樹木が本来見せたかった美しさだっただろうか。

    温暖化の影響で帆立貝の稚貝が死ねば、それは甚大な被害をもたらす。また、もし温暖化の影響で森林の樹木の実のつき方に変化があれば、森の生態系が崩れ、熊をはじめとする野生動物の生態にかなりの異常が出るかもしれない。そういったことは実害もあり、誰もが心配する。 その一方で、地球温暖化によって紅葉の仕方に多少の異常があっても、多くの人はそれほど心配をしていないように見える。

    しかし、自然を愛するということは、それに対する「attention(眼差し・注意)」を細やかに注ぐことでなければならないのではないか。 哲学者シモーヌ・ヴェイユが言うように「attentionを注ぐことが愛」なのである。 子供を細やかに見ていると、そのいつもと違う様子にすぐ気がつく。そして、それに注意深く対処することで、子供の生活の背後に隠れている危機に早く気がつき、対応できる。

    もし、秋の紅葉を楽しむのなら、その樹木に対する細やかな眼(attention)を継続的に持たなければならないように思う。 折につけ散歩して、同じ樹木や草花を見ていると、その微妙な変化やいつもと違うことに気がつく。そして、それに細やかに反応することこそが、その樹木への愛なのである。満開の桜と、紅葉の盛りの時だけ、いっときの目の保養として消費するだけでは、この自然の危機を乗り切る知恵を育てるには、少し足りないように思えるのだ。

    もう半分紅葉が散ってしまった樹木にも、緑の葉がまだ結構残っていた。それはまるで、「緑の紅葉」とでも呼べそうな、生命としての樹木の苦しさの訴えであるかのようにさえ思えた。