テレビの天気予報を見ていると、「青森県の紅葉はすでに見ごろを過ぎつつあり、前線は東北南部へ移ってきている」というニュースが流れていた。
山間部や観光名所のカエデ類を基準にすれば、確かにそういう季節の移り変わりなのかもしれない。しかし、日々の散歩で目の前にある木々を見つめていると、「定型句」を使った、そのような報道に違和感を覚える。
今日、十和田市官庁街通りの桜並木の下を歩きながら、枝を見上げてみた。
爽やかな秋空の下、ずらりと並ぶ桜の木々は、その多くはまだ驚くほど青々とした葉を茂らせている。紅葉が終わりを迎えているどころか、始まってもいないような樹が何本もあるのである。





ニュースで使われる「見頃」や「終盤」という言葉と、散歩をして観察する実際の樹木の紅葉の具合との間には、大きなズレがある。
見上げてみると、赤や黄に色づいている葉が比較的多い樹もあることはある。だが、多くの葉は十分に紅葉しきれないまま、くすんだ茶色や黒っぽい褐色の状態で、観ているだけでも苦しそうだ。
秋口になってもスムーズに気温が下がらず、夏のような暑さが時折ぶり返したりした影響ではないだろうか。本来ならば、朝晩の冷え込みや日照などの条件によって葉緑素(クロロフィル)が分解され、もともと葉に含まれている黄色の色素が目立つようになる。また、条件が整えば赤い色素であるアントシアニンも新たに作られ、美しい紅葉が生まれる。そうした一連のプロセスが、今年はうまく進まなかったのではないだろうか。
足元に目を落とすと、色づく前に強風や乾燥で枯れて落ちてしまったかのような落葉が散らばっている。紅葉しきれずに生命が尽きて枯れ落ちてしまったのであろう。
世の中の報道では、どこどこの紅葉が満開だ、見頃だと、季節を定型句で切り取って伝えるものが多い。しかし、そうした決まり切った文言による紅葉の描写ばかりではなく、地球温暖化などによる不順な気温変動の中で「いつものように紅葉できずに苦しんでいる樹木の現実の姿」を伝えて欲しいと思った。
紅葉の盛り、また終盤などという言葉で片付けられてしまう季節の陰で、身近な桜並木は黙って、紅葉し切れない今の季節を生き抜いているのである。