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久しぶりの散歩
久しぶりで散歩をした。このしばらくは涼しくなったようでありながら、結構湿度の高い日が多かった。それで長めの散歩に出かけたのは久しぶりだった。実際、午後3時半を過ぎて気温も高くはなかったのだが、どんよりした曇天の下でしばらく歩いていると汗ばんできた。それで湿度が高いことは体感でもわかった。
しばらく歩き、やはり久しぶりのマクドナルドでアイスコーヒーを飲んでいるうちに、涼しくなってきた。小休止ししばらくボウっと時を過ごしたりするのは、もう老人なので頭が回転しなくなってきたことがあるのだろう。それは悪いことではない。
官庁街通りの花壇の花を観賞したのも久しぶりだった。もう季節が変わろうとしているから、咲いている花の種類も変化してきていた。

咲く花と散る花が季節の移ろいを語り合っている。それは人の世でも同じことだ。わたしの知人もこの数年から十年近くの間に、何人も去って行った。下の写真も同様でに咲く花と散る花が季節の移ろいを語っている。人もまた、世に生きるものは、去っていったものと時の移ろいについて、時に語り合っているものである。わたしは少なくともそうしている。それは読書と祈りの時を通してのことだが、祈りについては、散歩で歩きながら祈ることができる。それで心の中で祈りながら、去っていった人のことを思い浮かべ、その人の生前の言葉のリフレインを記憶の空間に探すのである。

花壇にはうつくしく咲いている花もあるが、咲いている花の数は少しづつ減ってきているように見えた。

歩くことは、考えすぎることにブレーキをかけるのに役立つ。こうして散歩して、花を眺めていられるのは、考えようによっては至福に近い。
ところで死が近づく時の様子を、まるで滝つぼに向かっているかのようだと、昔短歌の先生から教わったことがある。その方は母の短歌の選者の先生で友人でもあった。母がもう長くないと医師から言われたとき、先生は病院まで見舞いに来てくださった。
母が亡くなって、わたしも母の意思を継ぎ、同じ先生に選者をお願いして同じ短歌の結社に入った。そのころ先生が母の思い出を語りながら、滝つぼの喩えを教えてくださった。川は悠々と流れている。しかしいつの間にか滝つぼに近づいていることに気づく。すると気がついたときには、もう考える間もなくどんどんと滝つぼが近づいて来て、あっという間に落下することになる。それを誰も止めることは出来ない。
母と同世代で、先生ご自身滝つぼに何年もしないうちに向かうことになるということは、もちろん言外に充分含んだ言葉である。その先生もお亡くなりになったようである。母の死後も短歌の詠草だけでなく、しばらくそれに添えて手紙なども認めていた。数年後に仕事が忙しくなって、短歌は休止した。
この10年ほどの間に、他にも長く知り合っていた友人や知人の多くが亡くなっていった。それは季節の変わり目にも似た、時代の変わり目のようにも感じられる。散歩をしていて、去るものとこれから咲くものがともに並んで在るのを見つけると、いつも同じ感慨が心に浮かんでくる。それを言葉で簡単に言うことはできないし、また言ってしまいたくもない。


では、この項目は終わりです。