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移ろう季節の中の沈黙と語り
5月に満開の桜が散った後、人通りも少なくなった桜並木を歩いていると、もうほとんど葉桜のように見える桜樹なのに、どうしてか遅れて咲いている桜の花が、一輪二輪と、太い幹の表や少し高いところの枝のなどに、とても控えめに咲いているのに、眼が止まった。

満開の桜は好きだ。しかし、わたしの感じ方の癖なのだろうが、満開の前にフライングして咲いている一輪二輪の花や、もう満開はとっくに過ぎたのに、かなり遅れて咲く一輪二輪の桜の花の方が、むしろ魅力的に見えてしまう。

フライングも遅れ咲きも、どちらもタイミングが外れているので、ほとんどの人は見向きもしない。しかし、そこで咲いている小さな花は、そんなことには無頓着だ。多くの人に見てもらわなくとも、そんなことは構わないのである。誰に対しても自己を主張することなく、ただひっそりと時節を間違えて、おっちょこちょいに咲いている自分に対して、ふと眼を止めてほんの一瞬微笑んでくれる人が一人でもいてくれたら、それだけで満足なのである。
いや、そんなことでもない。そんな人がもし一人もいなかったとしても、それでも構わないのである。
小さな桜の花は、ひっそりとして沈黙している。自分をまったくアピールしようとしない。そんなことは眼中にない。季節が多少外れていようがいまいが、大きなことではないのだ。

「今、わたしは咲いている。仲間の花々がほとんど皆散ってしまったことは、少し寂しいといえば寂しい。でもわたしは、いまここで誰に迷惑を掛けずに、静かに、むしろ沈黙の中でこうして咲いている。ほんの数日の間だけれども、わたしは自分の生を十分に満喫して生きている。」
そんな小さな桜の声が、沈黙の中から聞こえてくるような気がする葉桜の季節を、わたしはひとりで歩いていた。
時が過ぎ桜の葉は成長していった。季節は春の終わりから初夏へと移り変わっていった。

饒舌な言葉が溢れている世界に少し疲れていたわたしは、季節の移ろいの中で、散っていく花や新たに咲き始める花などを見て、心を慰めていた。心中で語りだそうとする自分自身の思いを戒めて、むしろ、大空や風や樹木や草花の沈黙の語りに耳を澄ましている方がむしろよいことなのだと、思いなすことにしていた。

